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追うぞ! 千夜千冊134夜 『明治女学校の世界』 藤田美実
何の話かよく分からない。手掛かりは、木村熊二という人がいたそうで、この人物を知ることから始めたい。木村熊二は1845年生れ1927年(昭和2年)死去。享年82歳。キリスト教牧師で教育者であった。

1885年(明治18年)、木村熊二と妻の木村鐙子(とうこ)は、九段下牛ヶ渕(現在の千代田区飯田橋)に明治女学校を開校した。近代日本における女子教育の先駆けとみなされている学校の一つであった(ただし1886年に鐙子はコレラで急死)。

1888年(明治21年)、木村熊二は、伊東華子と再婚するが、華子のスキャンダルに巻き込まれる形で女学校の校長職を退く羽目になった。その後、明治女学校は巌本善治が校長を引き継いだ。明治女学校は1909年(明治42年)に閉校するが、23年間存続期間に多くの人材を輩出した。

松岡正剛さんの解説で、木村熊二をさらに知ろう。
「最初のシテ役は木村熊二である。木村は京都に生まれて昌平黌で佐藤一斎に学んだ。その後、静岡学問所や沼津丙学校のある静岡に移って、ここで田口卯吉らと知りあった。明治3年に森有礼が少弁務使としてアメリカにわたったとき、外山正一・名和道一・谷田部良吉を弁務館員として選んだのは有名な話だが、そのとき外山が木村を誘った。アメリカで多少の“世界”を知った木村は、妻に鐙子を選ぶ。鐙子は明治12年に植村正久が創立した横浜バンド系の下谷教会で婦人会をつくっていた。アメリカ帰りの木村と、教会婦人部のリーダーである鐙子が一致相談してつくったのが、明治女学校である」

若き日の島崎藤村や津田梅子などが教壇に立ったそうだ。

本著は明治女学校の当時の事情を綴ったものである。
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[2015/01/26 23:52] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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