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追うぞ! 千夜千冊123夜 『知覚の現象学』 モーリス・メルロ=ポンティ
何が書いてあるのかわからない。困った(>_<)

手掛かりに、実在論と観念論を考えてみる。実在論(realism)とは、名辞・言葉に対応するものが、それ自体として実在しているという立場を云う。一方の観念論(idealism)とは、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定されるという考え方である。

メルロ=ポンティは、両立場の対立を根本的に止揚しようとした。そのように理解を始める。知覚の現象学と題されているのであるから、それは実在なのか観念なのか、立場を分けて対立として捉えずに、より包括的に思考する。その辺りの意味合いであろうか。

松岡正剛さんの解説から別の理解が得られる。
「もうひとつはゲシュタルト心理学からの影響だった。「知能とは、知覚された領域にひそむさまざまな対象のあいだの関係をとらえる能力のことではないか」というものだ。従来、生体の行動は一定の要素的な刺戟に対する一定の要素的な反応のことだとみなされていた。複雑な行動もこれらの組み合わせによっているとみなされていた。要素還元主義である。しかし、ゲシュタルト心理学はこの見方をまっこうから否定して、同じ刺戟がしばしば異なった反応になることもあれば、要素的に異なった刺戟が同じ反応をひきおこすこともありうることを例にあげつつ、生体というものは刺戟の個々の要素的内容に対応しているのではなく、個々の要素的な刺戟がかたちづくる“形態的で全体的な特性”に対応しているという仮説をぶちあげた。この“形態的で、かつ全体的な特性”のことをゲシュタルトという。これはメルロ=ポンティに大きなヒントをもたらした。たとえば神経系のどこかの部分が損傷をうけたとすると、それによって一定の行動が不可能になるのではなくて、むしろ生体の構造のなかでこれを知ってこれを補う水準があらわれてくる、そのように考えられるからだった。ここでメルロ=ポンティに、意識と身体のあいだにひそむパースペクティブのようなものがはたらいたのである。しかもそれらは、どこか相互互換的であり、関係的で、射影(profil)的だった。そして、それをとりもっているのがゲシュタルト的なるものだった。少なくともメルロ=ポンティにはそう見えた」

ピンと来ないところが多いが、メルロ=ポンティは、始点は実在論・要素還元主義に置き、そこから観念論・ゲジュタルトの知恵を取り入れ止揚を試みたのではなかろうか。

解り易い例があった。「血中にアドレナリンが放出されて、心臓の鼓動が増えた」ということと、「どぎまぎしていた」ということである。同じことを別の文脈で説明したものである。

メルロ=ポンティの定義によると、実在とは、「認識された」行動に対して、我々によって「生きられた」ものを理解するときに現われてくる。「認識する」とは、行動を分解して諸要素に分け、それらの諸要素が組立てられる原因を発見してから、今度はその原因から行動を説明することである。それに対して、「生きられる」とは、我々が行動するときに感じとっているところのもの、そのものである。
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[2014/06/28 22:11] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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