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追うぞ! 千夜千冊111夜 『曲説フランス文学』 渡辺一夫
韜晦(とうかい)趣味という言葉を覚えた。韜晦とは、自分の才能・地位などを隠しくらますことを云う。松岡正剛さんは、出版人・神吉晴夫と著者・渡辺一夫とに韜晦趣味を感じたということを云いたいのであろう。

松岡正剛さんがこのように誘っている。
「本書が1961年にカッパブックス『へそ曲がりフランス文学』として出版されたとき、ぼくはまだお尻の青い高校3年生だったのに、出版人神吉晴夫と知識人渡辺一夫の“関係”をおおいに羨ましくおもい、いつかそのどちらかの声に接するか、そのどちらかの一端に与したいとおもったものだった。そういう意味で、本書では渡辺一夫が神吉晴夫との友情の柵(しがらみ)の顛末をあかしている「まえがき」が、読ませてやまないものになっている。いまふりかえれば、この「まえがき」を読んだことが、ぼくをしてどこかで「編集」に走らせたのかもしれないとも思えた」

全体はつまらなそうだから「まえがき」だけ読んでみた。渡辺一夫(1901~1975年)は日本のフランス文学者で、神吉晴夫(かんきはるお、1901~1977年)は日本の編集者で出版事業家である。この二人は大学の同期だった。本著では中世から現代までのフランス文学を論じられていて、著者の深い人間観察や批判精神が披露されているとある。

松岡正剛さんが渡辺一夫の特徴をこのように説明している。
「渡辺一夫は周囲から日本のユマニストの象徴のようにおもわれてきた人物である。大江健三郎が“渡辺先生”を語るときも、そういう口吻になる。これは、渡辺がルネサンスの“ユマニストの王”であるエラスムスを研究していたこと、それ以上にフランソワ・ラブレーの翻訳と研究の第一人者であったことにもとづいている。しかし渡辺のいうユマニスムは、今日語られている「ヒューマニズム」なんぞとはかなり異なっていた。そこには「嘲笑」もあれば「揶揄」も含まれる。ようするにつねにおかしなモノやコトに対する腹の底からの「笑い」というものがある。これを渡辺先生は「寛容と狂信のあいだ」というふうにとらえた。寛容はともかくも、狂信までもがユマニスムに入るというのは、いささか意外であろう。けれども、たとえば本書に扱われている宗教改革者ジャン・カルヴァンにとっては、当時の宗教的な状況そのものが「狂信」に見えたのだし、逆に当時の宗教状況にいる者から見れば、カルヴァンその人が「狂信」のかたまりに見えたはずだった。すなわち、何を狂信と見るかということそのものがユマニスムの決定的な境目になることは、宗教改革の時期だけではなく、いくらだってありうることなのである。その境目を丹念にたどっていくことが、フランス文学の歴史という厖大な流れを渡辺流に絞っていくための本書の羅針になっている」

ユマニストとは人文主義者のことで、渡辺一夫は、フランスのルネサンス文化、特にフランソワ・ラブレーの研究で知られ、翻訳不可能と言われた『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳を完成させたことで有名であると知った。

松岡正剛さんの実直な回想である。
「正直なことをいうと、ぼくはこの本で初めてフランス文学の流れに入っていった」

奥が深そうなフランス文学に入る参考書として良いのかもしれない。
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[2013/12/08 20:00] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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