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追うぞ! 千夜千冊100夜 『上方芸能列伝』 澤田隆治
追うぞ! 千夜千冊には記念すべき日。100夜まできた。で、本家はと云えば1513夜まで進展している。追った率は6.6%で、まだまだ。

今宵は地元の話題でとっても興味深い。

松岡正剛さんの出だしはこうだ。
「大阪商船に勤める父をもつ澤田隆治は昭和30年に朝日放送に入社して、ひたすらお笑いの道をプロデュースしてきた。藤田まことの「てなもんや三度笠」、ダイマル・ラケットの「スチャラカ社員」、数々の芸人を網羅した「花王名人劇場」は、その代表番組である。その澤田のテレビ時代の工夫の数々もむろんおもしろいのだが、澤田が見てきた上方芸人の動態やそれに対する冷めた見方はもっとおもしろい」

横山エンタツ・花菱アチャコを、昭和38年生まれの僕は子どもの頃にも見ていないから(中田ダイマル・中田ラケットは見た記憶があるけど)、何が面白いのか肌感覚ではよく知らない。これはとっても残念なことだ。

松岡正剛さんがまとめてくれている。
「どこがおもしろいかというと、たとえばの話、澤田は昭和21年の13歳のときにエンタツ・アチャコを『東京五人男』(斎藤寅次郎監督)で見るのだが、初めて見るエンタツ・アチャコの笑いよりも古川ロッパの印象が強烈で、いまもってエンタツ・アチャコのシーンが思い出せないという。その感想をもって、エンタツ・アチャコの歴史に入っていく。そうすると、ふつうは見えてこないエンタツ・アチャコが見えてくる。秋田実がエンタツを担当し、そのため長沖一がアチャコのラジオ番組、これはぼくも子供のころのたのしみだったのだが「アチャコ青春手帳」「お父さんはお人好し」などを担当することになったことに、その後のエンタツ・アチャコの芸の分かれがあったというような視点である。こういう見方はおもしろい。なぜなのか。そこからダイマル・ラケットも見えてくるからだ。ダイマルはエンタツに憧れて芸人になった漫才師である。ということは、よくよく見るとダイマルの動きにはエンタツがいるということなのだ」

上岡龍太郎になってくるとよく見た記憶がある。

松岡正剛さんの要約が続く。
「上岡龍太郎はなぜ東京で売れたのか。上岡は大阪と東京のギャップを利用した。大阪では上岡の人気は、ちょうど反対の極にいる坂田利夫とはくらべものにならないほど、低い。アホの坂田が目いっぱいのサービスで笑いをとっているのに対し、カシコの上岡はサービスしないことを売りものにする。相手がサービスしても、それを断ち切るようなところがある。これはたいして大阪ではウケない。ところが東海道を東へ東へ進んだ東京の文化というものは大阪とちがって、気取っている。そこで、そのころコテコテの大阪弁まるだしだった板東英二・笑福亭鶴瓶・島田伸助の相手として東京にあらわれた上岡は、そのヘソまがりぶりでウケたのだ。実は上岡龍太郎一人では、誰も見向きもしなかったはずなのである。このように見てくると、上岡龍太郎は上方芸能の何かを喪失することで東京でウケたということになる。その喪失したものは何か。それが「ボヤキ」というものなのである。ボヤキの元祖は都家文雄である。ついで人生幸朗がこれを継いだ。風刺をしながらボヤいてみせる。そこには攻撃はない。そのボヤキを忘れて上岡龍太郎は東京で成功をした。まあ、そんなふうに澤田の目は読んでいくわけである」

本著の最後に「横山やすし 最後の漫才師」という小節がある。文庫版を出す際につけ加えられたようだ。

1996年1月21日横山やすし51歳で逝く。昭和32年に著者が関わっている漫才教室に木村雄二が応募し漫才師への道を獲得した。その後、横山ノックに弟子入り横山やすしとなる。昭和41年3月に西川きよしとの運命の出会いをする。その後の「やす・きよ漫才」の大ブレイクは多くの人が知るところだろう。懐かしい情景の記述であった。著者はそれらを見守ってきた人なのだ。

澤田隆治(さわだたかはる)さんはまだ存命みたい。なら御年80歳となる。
[2013/07/28 17:25] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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