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追うぞ! 千夜千冊90夜 『カメラ・オブスクラ年代記』 ジョン・ハモンド
今宵は知らない知識がわんさか出てきて、そうでっかと云うのみで、何度もため息が(それもかなり大きいため息が)でた。つまらない。正直そう思う。しかしそれは私が知らないからこそで、少しずつ知っていけば関心も湧いてこよう。そう自分を叱咤した。

まず、言葉だ。そう、カメラ・オブスクラ、という言葉。これはいったい何? それをきちんと理解しよう。

本著の訳者の川島昭夫さんが解説してくれている。
「カメラは、「部屋」の意。オブクスラは「暗い」という形容詞。ラテン語で「暗い部屋」をあらわすこの語を知らなくても、原理は誰でも知っている。すなわち針孔(はりあな)写真のことである。ピンホールを通過する光線によって、暗室の壁に外界の光景が逆さまに映し出される。この現象に、目をみはり、固唾を呑んだ経験は誰にもあるだろう。人工的にこの映像をつくりだすための装置がカメラ・オブスクラであり、この象を化学的な処理によって定着させる技術が「写真」なのである。いわゆるカメラは、このカメラ・オブスクラが発展したもの。そしていま私たちがなにげなく用いているカメラという語は、このカメラ・オブスクラの前半、「部屋」という部分だけを拝借し流用したものである。ひさしを貸して、「部屋」をのっとられた格好だといえようか」

なるほど。で、今宵はこのカメラ・オブスクラがつくりだす映像をかつての人々はいろんな分野で活用してきたという話なのだとわかった。

松岡正剛さんはその起源について本著から要約してくれている。
「この影像の原理に最初に気がついたのは、おそらく紀元前5世紀の墨子であった。墨子はピンホール影像を正確に理解した。経書にそうした記述が見られる。ついでアリストレスがこれに気がついた。ただし、アリストレスは日食のときの木の間から洩れる三日月形の日食像を知り、それが指をまるめてもおこることを確認しただけで、その原理の説明もできなかったし、ピンホール影像を人工的につくれることにも、まったく気がつかなかった。ヨーロッパがこの原理を理解するのは、なんと16世紀のことだった」

ずいぶんと歴史が古いのだな。本著は年代記と題しているだけあって延々と昔の知識の引用の繰り返しだ。途中のことはどうでもいい。

てっとり早く松岡正剛さんが18世紀以降のことを本著から要約してくれている。
「ロンドンにコーヒーハウスが流行しはじめた18世紀初頭、ジョセフ・アディスンは自分が編集する「スペクテイター」に「想像力の楽しみ」という記事を書いていた。その中に、グリニッジパークのカメラ・オブスクラ訪問記が入っている。これはぼくがタイムトラベルをしてでも、行きたかったところだった。その後、カメラ・オブスクラがどのように活躍したかは、本書が初めて教えてくれたことである。カメラ・オブスクラは携帯化され画家のお供となったほか、書物の挿絵づくりに活用され、たとえばウィリアム・チーゼルデンの『オステオグラフィア』の図版のすべてをつくりだしたり、エドワード・ドドウェルの『ギリシア古典地誌案内』の挿絵のすべてとなった。なかでもジェームズ・ブルースのことが心に残る。ブルースは“カメラ・オブスクラをもった探検家”ともいうべき人物で、その成果を『ナイル源流を発見する旅』に集大成してみせた。1790年のことである。100年後、ロバート・ランバート・プレイフェア中佐がブルースの果敢な跡を追って『ブルースの足跡をアルジェリア・チュニスにたどる旅』を出版している。ブルースは、ロンドンの機器製作の名門ネアン・アンド・ブランド社に自分の設計による折り畳み式カメラ・オブスクラを発注するほどの凝り性だったようだ。ゲーテが「旅行中にカメラ・オブスクラをもって歩くイギリス人」という評判をたてたものだが、それはこのブルースに始まるものであったらしい。当時、見世物小屋で流行っていたデリニエイター(輪郭写し機)も、ブルースのカメラ・オブスクラの模倣品であったという。このほか、本書はマイセンやウェジウッドの陶磁器がカメラ・オブスクラによって模写されていたことを告げている。少なくとも、エカテリーナ女帝の注文に応じてつくられたジョサイア・ウェジウッドの有名なクリームウェア「ロシア食器セット」は、カメラ・オブスクラを駆使した陶磁器だったようである」

そうでっか。もうお仕舞い。
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[2013/06/17 19:02] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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