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追うぞ! 千夜千冊70夜 『グーテンベルクの銀河系』 マーシャル・マクルーハン
かー、本編で424頁もあるのか。大部の著作だ。このようなものを読めそうにない。私は離を受講しているので本著に大凡何が書いてあるのかは察しがつく。今宵は本家記事にさっと目を通しておくだけで十分だろう。そう思った。

マクルーハンと云う人も異常な程の知識人だったらしくどうも本著は論理的に書かれていないみたいだ(読んでいないからそれさえも分からない)。であるから筋道立てて要約するのはなお困難らしい。そんなときに松岡正剛さんが役立つ。千夜千冊するからにはこのような大部の著作については要約を書いてもらわないと価値がない。

まず本著の第一主張(松岡正剛さん要約)
「人間はいつしかアルファベットに代表される表音文字をつかいはじめた。そのとき、人間がもともともっていた触知的輪郭(tactile contours)のような能力に異常が生じた。幼児がそうであるように、そもそも人間には触知的に対象世界の輪郭をつかむ原初的な能力がある。幼児が関心をもったものなら何でも手につかみ、何でも口に入れようとするのはそのせいである。人間はこの能力を“固定”するために、そこに声による言語行為をつけくわえた。幼児もそうだが、対象を把握したときの感情を声にした。そこで、「声の言語」と「頭の認識」というものが関連づけられた。触知的世界は聴覚的世界としっかりむすびついたのである」

続いて本著の第二主張(松岡正剛さん要約)
「ついで、この声の認識を文字や記号に移す時代がやってくる。ロゴグラムである。古代ギリシアや古代ローマでは、ロゴグラムはただちにアルファベットに進化し、この文字は一連の表音文字となる(アジア世界はマクルーハンのばあいは無視されている)。表音文字によって対象世界は目で確認できるシンタックスをもった。それでも、その文字は声を出して読まれ、対象世界は聴覚的回路を通して原初の触知的世界像にむすびついていた。すなわち、古代ではあらゆる文字は「音読」されていたのである。文字を音読しているかぎりは、触知的世界像と聴覚的世界像と文字的世界像はまだまだ同質的(connatural)だった」

ここまでは離ですでに習ったことだ。当時の記憶が蘇ってきた。

松岡正剛さんも離で以下のことを強調なさっていた。
「なにしろアルファベット表音文字は、漢字が1万とか10万の文字を必要としたのに対して、たかだか2、30の文字によってすべての対象を指し示すことができ、それを発音できるようにしたからだ。こんな画期的なツールはなかった。そこは表意文字とは大ちがいである。ただし、この画期的なツールが「音読」されているかぎり、音がすべてをつなげているかぎり、なのである。すなわち、スペルが声であり、スペルが聴覚的世界像とつながっているかぎりは、よかった。実際にも、長いあいだ、人々は本を声を出して読んでいた。中世においてもだれも「黙読」はできなかったのであり、写本にあたってもいちいちスペルを声にしながら書き移された。だからこそ、中世文化は朗読法と吟遊詩人と口述世界によって形成されていた。しかし、こうしたこのとのすべてが、活版印刷の出現によって解体されていく。そして、問題が大きくなるのはここから先なのだ」

以上は前置きで本旨の前提となる話だ。本題はと云うと、松岡正剛さんは以下のように指摘している。
「マクルーハンは、印刷文化が人間の経験を解体し、知性と感性を分断したと見た。触知的世界像と聴覚的世界像と文字的世界像は分断されてしまったのである。マクルーハンは、それによって人間はつねに慢性的な分裂病的心理状態になっているとも考えた。われわれはそのようなグーテンベルクの銀河系の住人になってしまっている。これが本書の後半のマクルーハンの論点である」

で、その内容が何かは直接本著を読めということだ。つきあっていられない。原始的に本を声に出して読むのは人間が太古の昔からそのようにしてきた訳だからけっこう身体に沁み込んでくる。それぐらいの学びで私には充分だ。

松岡正剛さんの総括は「しかし、ここであらためて強調しておくが、本書には、今日のIT型情報社会が知っておかなければならないことのほとんどすべてが、まさに触知的に暗示されているといってよいだろう」とある。

さて、私には感知できそうにない。
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[2013/04/09 15:43] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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