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追うぞ! 千夜千冊77夜 『風土の日本』 オギュスタン・ベルク
オギュスタン・ベルクって誰? どうもフランス人らしい。そして地理学者で日本論を主張する人らしい。今現在、存命で70歳を過ぎたあたりの人らしい。ふ~ん、風変わりな外国人なのだなぁ。

先立って和辻哲郎『風土』に目を通してみた。「第1章 風土の基礎理論」だけでいいや。あと難しそうだから。だけど、その章だけでも、例えば「寒さを感じる」とはどういうことかなんて難しい話から始まっている。読むのが辛かった。で、表題になっている“風土”って何かということなのだが、どうも「人間存在の空間的・時間的構造」について話しているようで、「風土とは単なる自然環境ではなくして人間の精神構造の中に刻み込まれた自己了解の仕方」であると書いてある。さらに難しそうな『倫理学』も読んでみるか。

松岡正剛さんはこう云っている。
「もともとベルクが日本研究の出発点にしたのは、和辻哲郎の『風土』である。ベルクは「風土」を“milieu”ととらえた。あいだにあるもの、である。その風土の概念を、ベルクは多彩な知識を援用してヨーロッパの哲学や地理学と照らしたうえで、ふたたび独自な概念として上昇させ(たとえば風土性=mediance)、そこに加えてベルク自身の風土観念を仕込ませていった。こうしてできあがったのが「通態」(trajet)や「通態性」(trajectivitet)という概念である。気象や植物などの空間を構成するものと、そこにいると精神や観念がふと能動的になる場所的なものとが、互いに作用しあい、組み合わさってつくられる風土的な特性のことをいう。なかなか暗示的である。ベルクはこの「通態性」をもって、日本人のわれわれが「ふるさと」とよんだり、「おもかげ」とよんだり、あるいは「みやび」「さび」「あはれ」とよぶものを解明しようとしたのであった」

よって本著は風土(ミリュー)という問題を主題としている。三部構成となっている。一部:基本要素の生気、二部:風土の理、三部:現実の構築、とタイトルがつけられている。一部では、日本人が自分たちを取り巻く自然環境の主な要素をどのように把握しているかを描いている。二部では、風土の問題に関して一般的な解釈が示されている。三部では、著者の理論的な枠組みに立脚して日本の風土の文化的次元の分析が行われている。

松岡正剛さんはオギュスタン・ベルクに強く影響を受けているのがわかる。
「結論から先にいう。ぼくは本書を警戒して読んだにもかかわらず、ベルクの術中にはまってしまっていた。一茶の「夕立やかみつくやうな鬼瓦」から話が始まっているのが、よくなかった。フランス人が一茶をさらりと出して日本のことを出すなんて、とんでもない。ベルクは日本人の気象感覚をヨーロッパ人と比較するためにこの句を持ち出しているのだが、一茶の感覚がぞっこん好きなぼくは、その手練にやすやすとのってしまったのである。これで、もういけない。「花冷え」「晩春」「入梅」「残暑」といった感覚の内奥を、ぼくは存分に知っていながらも、その存分に知っている感覚の裏地のようなものをフランス人から次々に教えられてしまった。むろんちょっとは抵抗もする。「風景の共感覚」などという言葉にだまされないぞとおもってもみる。が、その「風景の共感覚」の例として、「石山の石より白し秋の風」なんぞをすっと出されるので、またまた気分がよくなってくる。困ったものである(ちなみに、この句が誰の句かは、「千夜千冊」の読者は御存知ですよね。もし知らないのなら、諸君はベルクからではなく、日本の古典からやりなおすべきである)。こういうわけで、なんのことはない、結局のところ、ぼくはベルクとは共同戦線を張ることにした。二人で、近ごろ不毛な日本文化論を驀進しようじゃないかということになったのである。ぼくが『日本流』や『日本数寄』をたてつづけにまとめようとおもったのは、この会話がひとつのきっかけになっている」

「石山の石より白し秋の風」は、松尾芭蕉『奥の細道』で詠まれたものである。近江の石山寺のことだろう。いちおう千夜千冊の読者だから。

今宵本著を本気で理解しようと思ったら自分の頭に相当な“概念工事”を施す必要があると悟った。
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[2013/04/26 05:29] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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