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追うぞ! 千夜千冊65夜 『神道とは何か』 鎌田東二
著者と松岡正剛さんは昔ながらの知人だった。そんな気づきがあり本家記事を読んでいると、本著の書評と云うより著者の人柄紹介に近い内容であった。鎌田東二さんは、現在、京都大学こころの未来研究センター教授で62歳。ご自身のオフィシャルサイトもお持ちである。松岡正剛さんは69歳であるから、鎌田君と書いてあるのだな。
http://homepage2.nifty.com/moon21/

松岡正剛さんの書き出しは今宵のは良いね。曰く、「神道は神教ではない。そこにはもともと「主張」というものがない。「言挙げ」がない。静かなものである。そこがわからないと神道の感覚はなかなかわからない。ところが、中世近世の神道の歴史には、神道を神教にしたがった“神道家”たちの主張の歴史が、そうとうに交じっていた。言挙げばかりであった。たとえば、度会家行・延佳によって確立された「外宮の神学」と『神道五部書』による伊勢神道、卜部吉田兼倶による唯一神道と反本地垂迹論、家康を大権現にするために企画された天海の山王一実神道、山崎闇斎の垂加神道などなど、静かなどころか、次々にうるさいほどの神道理論が交わされてきた。あげくが明治維新後の国家神道なのである。」

鎌田東二さんの述べるところでは、神道とは「かみのみち」であり、それは「神からの道」と「神への道」から成る。「神からの道」とは、永遠からの贈り物であり存在世界における根源的な贈与である。一方の「神への道」とは、その根源的な贈与に対して心から感謝し畏敬し返礼していく道である。それが祈りや祭りとなる。

松岡正剛さんの言葉を借りると、「神道が本来もっているはずのナチュラルでアニミスティックな感覚を静かなものだと唱えること」を、鎌田東二さんが本著で試みようとしたという理解で宜しいのではないだろうか。

以下のこと、へっ~、そうなんだ。

「鎌田東二は国学院の出身で、若いころからぼくのところに遊びにきていた俊英である。『遊』もよく読んでくれていた。ぼくが7人と8匹で住んでいた渋谷松濤の通称ブロックハウスにも、汗をかきかきよく訪れてきて、そのころブロックハウスで満月の夜に開いていた「ジャパン・ルナ・ソサエティ」での俳句会などにも顔を出し、「お月さまぼくのお臀にのぼりませ」などという“名句”を披露してくれていた。この句はその夜の句会の一席になっている。」

こんな秘話も紹介されている。

「もっとも当時の鎌田君は立川密教やオカルティズムやニューポップスに関心をもっていて、水神祥のペンネームでしきりに大胆な仮説を書いていた。彼の友人にも密教関係者が多かったとおもう。しかし、鎌田君の本来はそもそもは少年期のころから神々との交流にあったようで、しばらくするうちに日本各地のミステリースポットや世界の聖地をまわるようになっていた。ついで、30代半ばで神職の資格を得てからは、“神界のフィールドワーカー”としての活動に積極的に徹するようになった。いわばフリーランスの神主になったのである。いまもそうだとおもうけれど、そのころから石笛や法螺貝を携帯し、いつでもその笛を吹いて心を鎮めているようだった。そのうち、彼こそが“神道の現代的解説者”としての期待を担うことになったのである。」

松岡正剛さんは「センス・オブ・ワンダー」についても言及している。「本書では、神道は「センス・オブ・ワンダー」を感じることだという立場が採用されている。「センス・オブ・ワンダー」はレーチェル・カーソンの著書のタイトルでもあるが、神道はもともとその感覚をもってきた、そのように、鎌田君はつかまえた。これを神道用語でいえば「ムスビ」の感覚であり、「ありがたさ」「かたじけなさ」の感覚であり、また「惟神(かんながら)の道」の感覚ということになる。このセンス・オブ・ワンダーを祭祀する空間が、各地に広がっている神社や社や沖縄のウタキなどである。むろん、このことは日本だけに特有しているものではない。そこには「環太平洋祭祀文化圏」とでもいうものが広がっていて、日本はそのアジアと太平洋に広がる祭祀文化圏との共鳴のもとに、それなりに独自な神道を発展させていった。」

自然の定義を学ぼう。自然とは、単なる物質的、物理的な物体ではなく、命を宿し魂を宿している大いなるものである。この自然をどのように肌身に感じとっているかが最も本質的に重要だと主張する著者に共感する。

神道と仏教との比較についても学べる。松岡正剛さんに耳を傾けると、「神道を理解するにあたっては、仏教と比較するのがわかりやすいときもある。仏教とのちがいは神道側もしきりに説明しようとしてきたし、国家神道が断行されたときも、廃仏毀釈という神仏分離の問題がおこっている。ただし、この問題をうまく説明するのは、なかなか難しい。日本の宗教史というものは、つねに神仏習合型に発展してきたからで、そこに神道と仏教を截然と区分するのは困難なのである。そこで、だいたいはこの問題は避けて議論されるのが“常識”だった。が、鎌田君はこの問題にもわかりやすい説明をしてみせた。生活感覚のなかで「神と仏」は次のようなちがいをもってきたのではないかというのだ。
1. 神は在るもの、仏は成るもの。
2. 神は来るもの、仏は往くもの。
3. 神は立つもの、仏は座るもの。」

鎌田東二さんの他書では『翁童論』(新曜社)がおもしろいらしい。レーチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』の再読も欠かせない。
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[2013/03/21 14:17] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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