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追うぞ! 千夜千冊53夜 『雪国』 川端康成
古典で名作。もちろん何度も読みました。が、文学のなんたるかについて熱くなったこともなく、それを論じるなんてこともしたことがないので、どのような視点で今宵の作品を感じたらよいのか途方に暮れています。

毎夜のように、松岡正剛さんは冒頭から川端康成との出会いをぐだぐたと書いておられます。そういう個所はさっと読み飛ばして、中盤あたりから一つの視点を提起なされていて、そこに目をやりました。

松岡正剛さんはこう述べています。
「読みなおしはじめて、すぐにうんざりしたのは、これも以前からそう思っていたことなのだが、「悲しいほど美しい声であった」という常套句である。冒頭、有名な「駅長さあん、駅長さあん」と汽車の窓から声をかけた葉子が駅長とかわす言葉から、島村が最初にうけた印象としてつかわれた言葉だが、これが葉子が出てくるたびにつかわれる。青年時代、この常套句に引っぱられて読みつつも、これはないよなと、そのころから感じていた。川端は『雪国』だけではなく、この常套句をどんな作品にものべつつかっている」

離でも教わった気がします(記憶違いかもしれませんが)。「花が美しい」と言ったところで、その美しさを表現したことにはならないということですね。

で、松岡正剛さんの分析は、
「川端はこれを逆手にとった。あらためて考えてみると、これが川端の作戦だったのだ。(中略)ある女は美しい。そこで、それ以外のよけいな描写はしないようにする。こうした常套的な女の描写に対比して、男の周辺の描写や別の女たちの描写には、淡々とではあるが、細かいことを書きこんでいく。こうしておいて、筋書や心理が絡んで進むうちに、いよいよというときに、ふたたび「その女」のことを「美しい」としか言いようがないと書く。(中略)こういう芸当は、たいしたものではないけれど、ちょうどどこかの座敷に行って、料理について一言の説明もなく、頃合をみはからったように女将がやってきて、「いかがでございますか」とだけ言われるようなもので、「うん、いいね」と言いたくなるような、そういう気分にさせてくれるのである」

川端康成はそういう手法をとったのだと学べました。だけどそれ以上のものでもないでしょう。川端康成の文学性の何がそんなに優れているのかという問いの答えにはなっていないような気がします。

『雪国』は、昭和9年から昭和12年までの4年間、すなわち川端の36歳から39歳にあたる時期に書かれたそうです。

頓珍漢なコメントですが、冒頭からの言葉は、暗記すると心地よい気分になります。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
 「駅長さあん、駅長さあん。」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

最後はクライマックスの最中に話が突然終わるという印象です。ここも暗記すると心に残ります。

 人垣が口々に声をあげて崩れ出し、どっと二人を取りかこんだ。
 「どいて、どいて頂戴。」
 駒子の叫びが島村に聞こえた。
 「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」
 そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱きとろうとする男たちに押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちたようであった。

小難しい文学講釈は脇に置いておき、作品をしっとり読んでみました。
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[2011/02/27 06:07] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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