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追うぞ! 千夜千冊48夜 『動機の文法』 ケネス・バーク
あかん、今宵はまったく分からへん。何が書かれてあるのか理解できないです。ケネス・バークってどんな人物なのでしょうか。調べてみました。

1897年、ピッツバーグに生まれる。オハイオ州立大学、コロンビア大学に学び音楽評論家として出発する。その後社会主義への関心を深め、さらに人間存在の形式一般を問うかたちで文芸評論に筆を染めるようになる。同時期、英米の文学批評を席捲したニュークリティシズムの一員とみられるが、言語学、記号学、社会学、心理学など、隣接諸科学をバーク流に解体消化する姿勢によってバークオロジー(バーク学)とよぶほかない体系を築いた。

手がかりなしです。松岡正剛さんから議論の出だしを学びましょう。
「たしかに、われわれの思考や行動は、どこかにたえず「劇学」(ドラマティズム)とでもいうべきものを孕んで動いている。われわれはつねに何かを演出しようとしているのだと、つねに自分をどこかに出演させている。(中略)それでは、そのドラマティズムをコンピュータにいれれば、すごいプログラムができると思ったのが、まちがいのもとだった。いや早計だった、決定的に欠けているものがあったのだ。われわれの劇学がどのように構成されているかというと、必ずやなんらかの動機によって支えられている。その動機には見えない文法があるかもしれない。問題はその動機の文法なのだ。それゆえ、その動機がどのような特徴をもっているかがわかれば、われわれの思考や行動の編集的構造もつかめてくる可能性もある。そう考えて、ケネス・バークが洞察に富んだ分析をしてみせたのが本書なのである」

松岡正剛流の説明で未だ分かり難いですが、私の理解では、本書の主題は、人間が思考をおこなうときにそこに生じる思考の基本形式の考察であると思います。

一応序章に基本的な概念が書いてあります。松岡正剛さんもそれを要約しています。
「バークは動機を五つに分けた。行為 act、場面 scene、作用者 agent、媒体 agency、意図 purposeである。われわれはどんなときも、この五つの組み合わせによって劇学の当事者になっている」

で、それがいったいどうしたというのでしょう? ケネス・バークの主張の何がそんなに凄いのでしょうか?

松岡正剛さんに説明していただきましょう。
「まず、[1]認識や行動には、「入れるもの」と「容れられるもの」があると喝破した。これを身体と言語とみなしてもいいし、ハードウェアとソフトウェアと言ってもいいし、わかりやすくコップとミルクの関係だとおもってもいい。次に、[2]どんな知覚や行為も、そこには互いに矛盾するかもしれない一連の定義群がひそんでいることを見抜いていた。この、矛盾するかもしれない定義群が、いい。われわれは、そもそもにおいて「単語の目録」と「イメージの辞書」と「ルールの群」によって知覚と認識と行動をおこしているのだけれど、それらは必ずしも一対一のコンパイル定義の裡に縛られているのではないからだ。ということは、バークはすでに、[3]認識や行為には「範疇自体のはげまし」というものがあることをうすうす見抜いていたということなのだ。コンピュータ・テクノロジストたちの多くは、この「はげまし」の意味がわかっていない。さらにバーグが先駆的だったのは、[4]われわれがかかわるすべての場面には「場面の背後の場面」がありうることを知っていたことである。[5]どんな情報(概念)も融合と分離のあいだにしか位置していないのだ」

ちっとも分かりません。

松岡正剛さんの今宵の決め台詞を引用しておきます。
「けれども本書がぼくに「編集工学」という用語をおもいつかせたということを言っておきさえすれば、本書がどれほど示唆的で画期的な一冊であるかは、この欄の“読者”なら了解するにちがいない」

了解できないですね。というか意味が分からないです。

稚拙でもなんとか自分の言葉で理解したいです。専門家の皆さまには失笑ものでしょうが、どうかご勘弁を。どうしてそういう結論になるのか意味不明でしょうが、なんとなくそう感じるのです。

普段は頭の中で別々の箱に入っている諸概念の仕切りを外して突き合わせる。そこでわれわれは新しい概念の組合せを経験し、その新鮮な光で目が醒めたように事物を見ることができるようになる。

今宵はこれでお仕舞い。
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[2010/12/21 18:11] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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