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追うぞ! 千夜千冊38夜 『遠い声・遠い部屋』 トルーマン・カポーティ
松岡正剛さんの冒頭の読書観から。

「一冊の本と出会うには、いろいろなことがおこる。文学作品であっても、文学史のように出会うなどということは、まずありえない。そんな読者は、きっとよほどつまらない研究者なのだろう。たまたま本屋で手にした本を読むばあいもあれば、評判に惹かれて読むこともある。買っておいたのにずっと放ってある本を、何かの拍子で読むこともある。それがおもしろくて、ついつい同じ作家や著者をたてつづけに読むことも少なくない。問題は、その本をどのような意識状況にいたときに読んだのかということである。その意識状況によっては、別のことに気をとられているときに読んだために、その本のおもしろさがまったくつかめず、十年以上もたってふたたび手にしてみて、しまったとおもうこともけっこうおこる」

今宵のトルーマン・カポーティですが、私の身にいつか面白いと思える日が訪れるのでしょうか。自分の意識状態はそんなに鈍いとは思っていないのですが、こういう作品にはまったく我が心身は反応しません。

松岡正剛さんは当初、トルーマン・カポーティのスキャンダラスな像が気に入らなかったそうですが、『遠い声・遠い部屋』に出会って素晴らしいと感じたそうです。「空気の粒のような文章」「まるで静寂から聞こえてくるエレミア記の響きのような作品」「しかも22歳でこの処女作を書いた」「どの一行にも破綻がなく、透明度が維持されている。処女作ならこのような集中はどんな作家にもありうることなのだが、その才能は群を抜いている」と評価されています。

正直、私はこの文庫本をさっと頁を繰った程度で読んではいません。読みたいと思える意識状況ではありませんでした。要するに、少年が「大人への恐怖をもちつつ、自身に萌芽する自我と成熟におののくばかり」の心境を表しているのですが、私にはどうでもいいことです。中勘助 『銀の匙』 (31夜) に近いものがあると感じました。

松岡正剛さんは、トルーマン・カポーティのことを「ネオテニーな少年」と表現しています。何か学びがないと悔しいからネオテニーという言葉を調べました。ネオテニー(neoteny)は生物学の概念です。それは、動物において、性的に完全に成熟した個体でありながら非生殖器官に未成熟な、つまり幼生や幼体の性質が残る現象のことを云います。幼形成熟、幼態成熟とも云うそうです。「ネオテニーな少年」の意味がなんとなく分かります。要するに、ませてるということでしょうか。

松岡正剛さんは、「カポーティの「内なる少年」については、ぼくはいまなお熱烈な共振者なのである」だそうですが、私は、今宵限りのお付き合いでお仕舞いにしたい作家です。
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[2010/09/03 04:36] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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