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追うぞ! 千夜千冊 15夜 『王と公』 鈴木正幸 編

神戸大学に文学部なんてあったんだという感想を持ちました。私の母校なだけに気になったのです。松岡正剛さんの書き方だと編者の鈴木正幸さんが30代前後だと読めなくもないので、現在66歳であり、神戸大学文学部教授であられたこと(おそらくすでに退官なされているとは思います)を書き添えておきます。

松岡正剛さんが本書を次のように解説しています。「一言でいえば、「王権」と「公」(おおやけ)の関係が民族的な公共性の発現とともにつくられていったことを、どのように説明できるのか、その点への挑戦が試みられている」。

どうやらその挑戦とやらが稀有らしい。つまりこういうことなのでしょうか。古代東アジア世界から自立をはかり、かつ日本を治めるためには、神権をもった「王」を戴いておく必要があった。だけども「公」「公共」とも上手に関係している必要もあった。

松岡正剛さんはこう表現しています。「そこで生まれてきたというか、工夫されたのが「詔」と「召」ということである。すなわち「みことのり」によって、上からのオーダーと下からのプロダクションとを、上からのオーガニゼーションと下からのディストリビューションとを、何かで縦横にくるんでしまうことだった。「王民共同体」としての日本的王権システムが確立したのは、おそらくこうした背景による」。

今宵に関して本家の千夜千冊はあっさり短く終わっていて、要は本書が王権論について新しいパラダイムを提示したことを評価しているのみなのですが、私としては、それが一体どのように意義高いことなのかの判断がつかず悶々とした気持ちのままでいます。

ごく素直に鈴木正幸さんの序文から引用します。

「王と公と公共の関係のあり方、その史的変遷の分析をすることによって目標にアプローチしたい。公が公共を体現し、その公を王が代表していなければ、王は存立できないし、したがって君主制は存立しない。社会的公共は時代によって変化する。その変化に対応できなければ王権は危機に瀕する。逆に言えば、王権が存続したことは、時代による社会的公共の変化に王権が対応して姿勢転換をしてきたことを意味する」。

「自覚的に選択された君主制」という言葉が使われていますが、例えばイギリスの君主制のことです。その対比で日本の天皇制の特徴をこれまでにない視点から論じたのだと理解しています。
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[2009/11/12 00:10] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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