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追うぞ! 千夜千冊 12夜 『テスト氏』 ポール・ヴァレリー

さて今宵はとっても難解かもしれない。松岡正剛さんの近辺では、千夜千冊で自分の好きな夜を挙げることがありますが、12夜の『テスト氏』を推す方は多いです。だから私も気になってはいました。

その『テスト氏』を栗津則雄訳で読んでみました。何が書いてあるのかさっぱり分からない。当然、内容を噛みしめるも何も、共感できるものか否かも、理解できないのだからまったくお手上げです。この原作を小林秀雄訳で読むのかそれとも清水徹訳で読むのか、その相違を議論している人もいてまったく別世界を垣間見た感じです。

松岡正剛さんが、21世紀は「方法の世紀」となる。これは、「主題の時代ばかりがまかりとおるなんて、もうたくさんだ」という意味であり、「方法とは道筋である。手立てである。また、「仕組み」であって「裂け目」である。主題はいつもどかっと坐っているが、方法は切れたり離れたり、くっついたり重なったりする。方法はいつも稲妻のように動いているし、割れ目のように何かのあいだにある。そのような主題と主題のあいだにある方法に注目したい」と述べていることは以前より知っていました。

で、私が意味不明なのは、それとポール・ヴァレリーはどう関係があるのでしょうか。その鍵が以下にありそうな気がします。

松岡正剛さん曰く、「なぜヴァレリーは方法に注目することかできたのか。精神の正体が方法であることに気がついたからである」「不安定なものこそが生の道筋を通るということがある。その道筋になんとか気がつけば、精神がとりだせるときもある。なぜならば、精神とはその道筋そのものであり、その道筋を眺める視点が複合化されたものであるからだ」「ヴァレリーは主題として精神を選んだのであるけれど、そのうちその精神の隙間を走る方法に関心をもちはじめ、やがては精神とは実は方法そのもののことだったということに気がついたのだ」

あかん。まったく分かりません。

続けて松岡正剛さん曰く、「テスト氏とはそのようなヴァレリーの分身のことである。「精神」がヴァレリーであるとすれば、その精神を発現させ創発している「方法」がテスト氏なのである」

そう言われましても。

さらに続けて松岡正剛さん曰く、「ヴァレリーが『テスト氏』で示したことは、はっきりしている。精神と言葉のあいだに動めくものを描写したのだった。イメージとマネージの隙間を走る道筋を辿ろうとしたのだった。その「動めくもの」「隙間を走る道筋」とは、方法だ」

とは言え、自分なりに何かを本著から掴まねばならないと思い直しました。少しは分かったようになった以下の引用をして今宵を締めたいと思います。

「観念」は、わたしにとっては、変形の手段である、-それゆえにまた、何らかの変化の部分乃至は契機である。人間の持つ何らかの「観念」は、「間を変形する手段である。」 テスト氏の思想若干より
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[2009/11/03 00:10] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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