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追うぞ! 千夜千冊 7夜 『神々の猿』 ベンチョン・ユー

これもまた分厚い。タイトルから何の本かは分からないですが、副題(「ラフカディオ・ハーンの芸術と思想」)から、どうやらあの小泉八雲について書かれたものだということを知りました。

私はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がどのような人かということに予備知識がなくて、まずそこから調べてみないといけないぐらいの浅い教養です。このようなことも知らなかったのかというのを二つほど紹介すると、一つは、小泉八雲を今日まで「こいずみやぐも」と読んでいましたが、正しくは「こいずみやくも」でした。もう一つは、旧名をパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)といい、一般的に知られているラフカディオは彼のミドルネームであるということです。

1890年40歳でハーンは来日し、翌年に島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられました。その後、日本人の妻と結婚、帰化して三男一女の子をもうけ、1904年54歳の若さで狭心症により当時の東京の自宅(牛込)で亡くなっています。

松岡正剛さんは、ハーンにはかなりの著作があり「ハーンをどう見るかは日本の国語文化の出発点を問うとともに、近代日本を内と外で同時に見るにはどういう方法をつかえばいのかという、はなはだ難解な問題を孕んでいる」と述べています。私が感じるに、これはハーンが近代日本について書いているものが多く、ハーンの見方次第で今日の我々の器量が試されるという意味なのでしょうか。

私はハーンの作品を何も読んでいません。悔しかったので、松岡正剛さんが「脳天を割られたような衝撃を食った」という『神国日本』を読んでみました。加えて大著であると紹介されていた渡辺京二『逝きし世の面影』も併読し、私もハーンに詰問されている気がしました。「おまえはそれでも日本人か」と。日本を知る覚悟をも教えられたという感じがします。

で、今宵は何が議論なのかというのがつかみ難いのですが、ハーンが日本を愛惜し美しい日本を論じ紹介したのですが、この日本賛歌ぶりに対し、理想化した日本の面影に視線を注入しすぎているのではないかという批判が今日まで多く存在したのです。松岡正剛さんはこう言っています。「はたしてハーンの見た「神々の国」は幻影だったのか。そうでないとも言えるし、そうであるとも言える」。

松岡正剛さんが続けて言うには、「さて、ハーンの日本論をいったい日本人に評価できるのだろうかということになる。この問題はけっこう重い。なぜハーンが日本の魅力をあれほどまで絶妙に表現できるのかという謎を追求するだけでは、答えがつかないことがあるからだ」。

どうやらハーンの経歴から(出身がヨーロッパであり来日するまでアメリカに暮らしていた)、ハーンおける東西文化の融点をさぐる必要性が生まれてきます。で、やっと『神々の猿』の話となるのですが、著者のベンチョン・ユーは、ハーン作品群を再話(神話・伝説・昔話を再構成する文学のこと)という視点から解読してみせたようです(『神々の猿』を一応読みましたが、私には要約不可能で、この結論が明晰に認識できませんが)。

ベンチョン・ユーは、松岡正剛さんの情報によると「韓国に生まれて、東京の一高に学んだ後、アメリカで多彩な文学研究にとりくんだ人」のようですが、それ以上のことは何も分かりません。無名な人だけど、視座が斬新で価値があるということなのでしょう。監訳者が次のように書いています。「内外の多数あるハーン研究の中で、これほどハーン芸術の全体性を見渡し、実証的でその発展と成熟のありようを跡づけていった著作はきわめて少なく、おそらく本著の右に出る研究書は、しばらくのあいだ出現しないのではなかろうか」

私なりに整理すると、ハーンは来日まで欧米において、神話、伝説、昔話などを通じて文化を深く知り抜いた見識を備え、参与観察など民族の実態に学ぶ技術やノウハウにも長け、そのうえで14年間ものあいだ精力的に日本の深層を掴もうと取り組んだので『神国日本』のような傑作を著せたということ。我々がそれを今日読み解き、日本文化の正当な見識を持つには、ベンチョン・ユーのような東西文化の俯瞰的な視座を持ちハーンの思想を見つめるということに学ばなければならないということかしれません。

一市民である私の身にはしんどいことです。だけれども、教養を身につけるというのは、このような地道なことをやり続けるということです。「追うぞ! 千夜千冊」を頑張ります。気を引き締めました。
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[2009/10/14 00:10] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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