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追うぞ! 千夜千冊136夜 『尾崎豊・覚え書き』 須藤晃
今宵、なぜこの選本なのかよく分からない。

松岡正剛さんは、今宵はいつもと違って、意味不明に書き出す。
「いい本だ。なにより著者のスタンスがいい。尾崎豊のような若者スターを相手に何かを綴るというのは、もともと難しい。しかもそのスターが26歳で夭折して謎の死をとげているだけに、よけいに難しかったろうに、つねに一定のスタンスを崩さずに綴ったのが、尾崎豊をかえって浮上させた。なぜかぼくにも、ときどきXJapanのhideやサッカーの中田英寿と会って対話をしてほしいとか、かれらについて書いてほしいという依頼がくる。が、たいていお断りしている。付き合いがないかぎりは、とうてい書けそうもないからだ」

尾崎豊なら、薄ら覚えがある。僕は、大学時代に尾崎豊ファンの女性と交際していた。彼女に知らされ、デビューし立ての尾崎の歌をはじめて聴いた。尾崎は、熱量が半端ないとは感じた。

松岡正剛さんは、著者と尾崎豊との関係を要約してくれている。しかしそれが一体どうしたんだという内容だが。
「著者の須藤晃はCBSソニーのディレクターで、音楽プロデューサーである。尾崎のアルバムの大半を手がけた。16歳の尾崎のビデオを見せられ、「暗い歌だから、おまえが担当しろ」と言われたのが尾崎との出会いだったという。須藤は最初のアルバム『十七歳の地図』の歌詞を何度も尾崎に書きなおさせている。これがすべての成功の原因だったようだ。須藤自身が大学でアレン・ギンズバーグやゲイリー・スナイダーらのアメリカ現代詩人を専攻していたせいもあったろう。そのころの尾崎はパンクロックの「アナーキー」が好きだったらしい。意外なような気もするし、それなりに頷けもする。ぼくも一度だけ「アナーキー」のナマを聞いたが、そのときのライブハウスに来ていた連中は、どこか尾崎に共通するものがあったからだ。当時、尾崎はエーリッヒ・フロムを読んでいた」

先日(4月1日だった)、「昭和偉人伝」という番組があり、尾崎豊を取りあげていた。見城徹さんとのエピソードが興味深かった。須藤晃さんも出演していて、当時の尾崎のことを語っていた。

松岡正剛さんは、尾崎豊の奇怪さを、次のように表現している。
「ところが、尾崎自身は苦悩しつづけた。20歳になったときのコンサートでは、最後の曲で「俺の歌なんだから、誰も歌うんじゃない!」と発言し、その後のコンサートを停止してしまったりした。いつも苦悩しつづけていたらしい。そうした尾崎のファン無視の態度に、さすがに取り巻きやファンも「こいつはどこかおかしいんじゃないか」と思いはじめた。尾崎はコンサートが終わると吐いていた。ダメな自分を吐いたのである。ついにレコード会社も移籍した。つまり著者とは別れることにもなった。1987年の年末には、須藤もまったく気がつかなかったそうだが、覚醒剤取締法違反で逮捕もされた」

尾崎豊は、逮捕後、復活を果たすのだが、須藤晃さんらが支えたのだろう。

それだけの話ではないか。
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[2015/04/09 00:15] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊135夜 『電話帳の社会史』 田村紀雄
電話帳の変遷が書かれてある。

松岡正剛さんの要約では以下のように説明されている。
「最初に電話帳のしくみをつくったのは、リチャード・ドネリーの『シティ・ディレクトリー』のようだ。1880年代までさかのぼる。すでにアルファベティカル・ページとビジネス・ページに分かれていた。後者がイエローページにあたる。ドネリー社のしたことで興味深いのは、ヘディング(分類)とデザインの工夫である。デザインはタイプフェイスの多用によっているが、ヘディングには「ブック・ビジネス」という分類方法を採用した。いわゆる職業別である。その後、電話帳はめざましい進化をとげていった。まず定期刊行物になった。「最もよく読まれている雑誌」「聖書を凌ぐベストセラー」などといわれるのは、電話帳がれっきとした出版物であることをよく物語っている。しかもタダ。そこで電話帳に目をつける広告主が次々にあらわれた。たんなる広告ではない。電話番号を広告するという“文化”がそこにあらわれた。こうなると電話番号にも“いい番号”というものが出現して、プレミアムがついてくる。「♪伊東に行くならハトヤ、ハトヤに決めた、4126、ハトヤ、よいふろ、ハトヤ」というふうになる。」

電話の発明と共に、電話帳も生れた。やがて電話帳は出版物となった。そこに広告をだす事業者があらわれイエローページが登場した。第二次世界大戦を経て電話帳市場は再編され、データベースと検索の技術革新と共に、電話帳は進化していった。

ここで、松岡正剛さんのお得意の編集が登場する。
「電話帳の歴史は検索の歴史でもある。ということは、編集の歴史でもあった。いまインターネットでも検索システムが最も重要なサービスになっているが、これは電話帳の歴史のまさに繰り返しなのである。最初は交換サービスである。ついで電話番号案内や電話番号調べというサービスが生まれた。番号調べ員がずらりと並んで首っぴきで調べ、サービス孃がこれをお知らせするという原始的なサービスから出発して、しだいに検索システムを向上させていった。電話帳の巻末にも各種のインデックスをつけた。イヤイヤ電話帳そのものが巨大な検索システムとして成長していったのである。さらに電話番号から名前へ、住所と名前から電話番号へという、オンラインによる相互検索サービスができてきた。しかし、これらの検索サービスもコンピュータとネットワークが結ばれるにしたがって、結局は電話だけのサービスではなくなっていった。オンライン上のすべての情報を検索できること、このことが最大目標になってきたのである。インターネット時代とはそのことである。しかし、こうなってくると、電話をふくむオンラインシステムの総体が検索エンジンを内蔵した編集構造をもたなければならないということになる。また、送信側と受信側がしだいに同一編集検索システムの中で重なっていく。しかも電話番号とIDコードとが連動と重畳することによって、最近のケータイやiモードがそうなのだが、電話をかけることとメールをヨムことと、その相手の番号(コード)を登録することと、それをリダイヤルすることが、すべて同じ意味をもってくる。つまり検索とは、実は「相互編集モードの共有だ」ということになっていくのである」

そういうことなのか-。あまり興味が湧かない。

著者の田村紀雄先生は社会学者である。どうして本著を書かれたのか不明だが、電話帳の社会史について国内最初でかつ仔細な書籍であることに相違ない。
[2015/02/10 00:10] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊134夜 『明治女学校の世界』 藤田美実
何の話かよく分からない。手掛かりは、木村熊二という人がいたそうで、この人物を知ることから始めたい。木村熊二は1845年生れ1927年(昭和2年)死去。享年82歳。キリスト教牧師で教育者であった。

1885年(明治18年)、木村熊二と妻の木村鐙子(とうこ)は、九段下牛ヶ渕(現在の千代田区飯田橋)に明治女学校を開校した。近代日本における女子教育の先駆けとみなされている学校の一つであった(ただし1886年に鐙子はコレラで急死)。

1888年(明治21年)、木村熊二は、伊東華子と再婚するが、華子のスキャンダルに巻き込まれる形で女学校の校長職を退く羽目になった。その後、明治女学校は巌本善治が校長を引き継いだ。明治女学校は1909年(明治42年)に閉校するが、23年間存続期間に多くの人材を輩出した。

松岡正剛さんの解説で、木村熊二をさらに知ろう。
「最初のシテ役は木村熊二である。木村は京都に生まれて昌平黌で佐藤一斎に学んだ。その後、静岡学問所や沼津丙学校のある静岡に移って、ここで田口卯吉らと知りあった。明治3年に森有礼が少弁務使としてアメリカにわたったとき、外山正一・名和道一・谷田部良吉を弁務館員として選んだのは有名な話だが、そのとき外山が木村を誘った。アメリカで多少の“世界”を知った木村は、妻に鐙子を選ぶ。鐙子は明治12年に植村正久が創立した横浜バンド系の下谷教会で婦人会をつくっていた。アメリカ帰りの木村と、教会婦人部のリーダーである鐙子が一致相談してつくったのが、明治女学校である」

若き日の島崎藤村や津田梅子などが教壇に立ったそうだ。

本著は明治女学校の当時の事情を綴ったものである。
[2015/01/26 23:52] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊133夜 『直観幾何学』 ダヴィッド・ヒルベルト&コーン・フォッセン
今宵の松岡正剛さんは、本著とは関係のない、1967年の、自身が編集長を担った『ハイスクール・ライフ』というタブロイド新聞のことを語っている。どうでもよいのではないか。

松岡正剛さんは冒頭でこのように記している。本著のまえおきを写している。
「数学には二つの方法がある。ひとつは「抽象化」の方法で、これは幾重にも重なった数学的事実から論理的な立場をつくりだすもので、その後にはこれらの事実をまとまりとして一つの統一システムをつくりあげたくなる。もうひとつは「具体化」の方法で、これは対象の動向をそのまま生きた姿でつかみとり、その内面的な関係をさぐろうというものである。しかし、この二つの方法をつなげる方法というものもなければならない。そこにはしばしば「直観」が動いている。幾何学ではもともと代数幾何学、リーマン幾何学、位相幾何学というような「抽象化」が成功をおさめて、その後の統一システムをつくってきた。それはそれでいい。けれども、そのような成功の最初に何があったかといえば、これは「幾何学的直観」ともいうべきものがはたらいていたはずなのだ。本書はその「幾何学的直観」の正体を求めて、それを大胆にも「直観幾何学」と呼びなおしてみせた画期的な一冊だった」

幾何学とは図形や空間の性質について研究する数学。説明が難解で頭に入ってこない。要するに直観でつかむ幾何学なのだろうが。
[2015/01/13 23:30] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊132夜 『青い花』 ノヴァーリス
今宵の松岡正剛さんはこのような書き出しである。
「読書というものには偶然が関与する。夜中に街を歩いていて、ふと見上げた星々の何に目をとめたかという偶然だ。いつ、どこで、どんな本に出会ったか。そのなかには、一連の星座をかたどる本のうちの一冊に出会うような偶然もある。たとえばドイツ・ロマン派にいつ出会えたか。これはその後の読書海図のひとつの運を決めている。彷徨する海上でどんな星に出会えたかということに近い。その星も、ゲーテでは大きすぎるし、ヘルダーリンではあまりに微に入りすぎている。ホフマンかノヴァーリスか、あるいはジャン・パウルかティークか。これらは北斗七星やオリオン座といった星座である。一度、目についたら全天はこの星座から始まっていく。ちょっと冬めく書籍の夜陰なら、アルニムかブレンターノというところ、これはさしずめスバルや猟犬座であろう。運がよければ最初からシュレーゲル兄弟という連星に出会うということもある。ドイツ・ロマン派に出会うこと、それは、読書においてどのように「夜の思想」に出会えたかということであり、どのように「夢」と「電気」と「彗星」を同時の刻限に観相できたかということを物語る。その同一刻限に見るロマン派の光景というものは、出会ってみなければ決してわからない結晶的な雰囲気というものを伝える。ぼくにはそれがノヴァーリスの『青い花』からだった」

本との出会いとはそんなものか。よく分からない。どうやら自分の人生でドイツ・ロマン派と出会わなかったようだ。ゲーテ「若きヴェルテルの悩み」、シラー「群盗」など18世紀半ば以降のドイツ文学のことだろうか。

松岡正剛さんから一つの事実を教わる。
「ノヴァーリスには14歳で婚約したゾフィーという少女がいたこと、そのゾフィーはすぐ重病に罹って死んでしまったこと」

本書は愛の小説か。二部構成となっており一部は完結しているが二部が未完のようだ。表題は、主人公が旅の終わりに出会った女性が実は夢で青い花にみた顔であることを認識しこれこそ永遠の愛の原像がこの世にあらわれた姿であると知ったのか。

1801年、ノヴァーリスは満28歳で夭逝した。
[2015/01/06 18:20] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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