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追うぞ! 千夜千冊131夜 『鹿鳴館の系譜』 磯田光一
磯田光一は1931年生れ。1987年に56歳で亡くなっている。文芸評論家であった。

後期の仕事が評価されているようである。1978年(磯田光一47歳)の『思想としての東京』以後、実証的な手法で近代日本をとらえるやり方に変化したとされる。1979年には『永井荷風』で第1回サントリー学芸賞、1984年には『鹿鳴館の系譜』で読売文学賞を受賞。戦後文学の軌跡についても『戦後史の空間』(1983年)、『左翼がサヨクになるとき』(1986年)などの著作がある。『萩原朔太郎』を完成させた後、急逝。

本著では何が要点なのか。松岡正剛さんの解説に学ぼう。
「明治16年11月28日に鹿鳴館は麹町内山下町に開館した。いま日比谷の帝国ホテルがあるところより少し南側にあたる。プロデューサーは井上馨、設計はジョサイア・コンドル、総工事費が18万円だった。すぐに洋装舞踏会が開かれた。ピエール・ロティは「東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は、まったくの猿真似だった」とからかった。しかし、これが日本の翻訳文化の確立であり、江戸とは無縁の文学の誕生であり、初の日本モダニズムの樹立であったのである。実際にも、これらはだいたいが明治16年の前後におこったことばかりだった。磯田光一はそのことをあえて積極的に認めないかぎり、日本の「近代」の意味など見えてこないと考えた。これが本書を貫く基本姿勢である。これより数年前、すでに磯田は『思想としての東京』および『永井荷風』によって、明治日本のモダニズムの原点をさぐろうとしていたのだが、その原点にひそむ謎の解明は、本書に任された」

本書は11章で構成されている。
1 訳語「文学」の誕生-西と東の交点
2 「小学唱歌」考-その一世紀の帰趨
3 湯島天神と丸善-硯友社における江戸と西洋
4 東京外国語学校の位置-二葉亭四迷『浮雲』の原像
5 「明星」派の水脈-『みだれ髪』の遺産
6 漱石山房の内と外-『明星』の基底にあるもの
7 『田園の憂鬱』の周辺-佐藤春夫と宇野浩二
8 日比谷・銀座界隈-都市と前衛芸術
9 「革命」という外来思想-風土のなかのドラマ
10 昭和のモダニズム-ある感情革命
11 三人の鹿鳴館演出者-聖徳太子・伊藤博文・吉田茂

明治の日本が近代のモダニズムをいかに獲得していったかを思い綴っている。

さらに松岡正剛さんの解説に学ぼう。
「本書は一方で、近代日本のモダニズムの発生の仕方について議論しようとする者たちのための、語り口のプロトタイプをつくりだした。これは磯田光一の隠れた功績である。もうひとつのプロトタイプは、おそらく前田愛や芳賀徹やらがつくった。その後、これらのプロトタイプはさまざまに変奏され、編集されて、樋口覚から松山巌までが、関川夏央から東秀紀までが、それぞれに発展して踏襲した。このプロトタイプを、磯田光一がどのような議論によって肉付けしたかというのが、本書を読むフォークとナイフの使い方になる。切り口は、まず江戸晩期の「文学」がそもそもは「洋学」に対抗するもので、かつリベラルアーツの意味をもっていたにもかかわらず、やがて文学は単なる文芸作品の羅列の意味に変わっていったという問いから始まっている。少なくとも『日本開化小史』の田口卯吉のあたりまで「文学とは人の心の顕像なり」であったのである。ところが、いつのまにか文学は文芸意匠の代名詞になっていく。これはなぜなのかというのが、磯田の最初の問いである。これで本書における磯田の包丁捌きがどういうものかが、だいたいわかる」

文芸評論家の仕事とはこのようなものなのか。

まったく興味が湧かない。
[2014/12/24 21:55] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊130夜 『裏切られた革命』 レフ・トロツキー
レフ・トロツキー。1879年-1940年。ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家、ボリシェヴィキの革命家、マルクス主義思想家。トロツキズムまたはトロツキー主義は、レフ・トロツキーによって主張されたマルクス主義および共産主義革命理論のことでトロツキズムを主張する者をトロツキストという。

松岡正剛さんに要約してもらおう。
「トロツキーは1935年に亡命先をフランスからノルウェーに移して、そこで本書を書いた。もとより執筆能力の旺盛なトロツキーだったので、あっというまに書き上げたかとおもう。原題は『ソ連とは何か、そしてどこへ行くのか』というものだった。それがフランス語版で『裏切られた革命』になったのを、トロツキーも承認したらしい。このタイトルは、本書執筆の翌年の12月にスターリン憲法が制定されたことをおもうと、まさにふさわしい。トロツキーが本書で言いたかったことは「ソ連には社会主義はまったく存在しない」ということだったからである。トロツキーは本書を書いた5年後の1940年に、メキシコ郊外でピッケルで脳天を打ち砕かれて死んだ。スターリンの指金であることが明白になっている。スターリンは最初はシケイロスを隊長とする20名ほどの暗殺団にトロツキーを狙わせた。しかし、これは失敗した。ダヴィド・シケイロスといえばメキシコを代表する画家であるが、第二次世界大戦中の当時は画家が暗殺を計画するような、そういう行方知らずの情勢だった。メキシコばかりのことではない。このあたりの情勢はあまりに複雑すぎて説明しきれないが、たとえば、トロツキーはシケイロスに狙撃される前はフリーダ・カーロの「緑の館」に隠れていて、そこは画家のディエゴ・リベラが譲ったものだった。革命画家たちのあいだも割れていたわけである。それはともかく、何であれシケイロスは失敗した。そこでスターリンは、トロツキーの女性秘書の恋人役になりすました青年暗殺者を送りこむ。青年は首尾よく60歳のトロツキーの脳天をかち割った。トロツキーはこのテロリストをすっかり信用していたらしい。遺言は「第4インターナショナルを前進させてほしい」だった」

ロシア革命(十月革命、1917)は、トロツキーとレーニンにより指導された。1924年レーニンが死去するとスターリンが台頭しトロツキーと対立する。政治力に長けたスターリンが勝利し、トロツキーはメキシコに亡命しそこで暗殺されたのである。
[2014/10/14 00:18] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊128夜 『ボドニ物語』 田中正明
表題に物語とあるから、何かファンタジー小説かと思った。見るとタイポグラフィの話だと知る。

タイポグラフィ(Typography)は、活字を用い、それを適切に配列することで印刷物における文字の体裁を整える技芸である。印刷物の読みやすさである可読性や、視認性、そしてその美しさを得るために、活字の配置・構成やその属性すなわち書体、字体の大きさ、行と行との間隔、文字と文字との間隔、印刷紙面上での活字が占める領域の配置・構成などを設定し、経済的に効率良く印刷物を出版することがタイポグラフィの始点である。

アップル創業者スティーブ・ジョブスが、Reed大学でカリグラフィ(装飾文字)の授業に出て話は有名だ。タイポグラフィの一部にカリグラフィがあるという理解でよいだろう。

松岡正剛さんは高校時代の「九段新聞」の話をしている(九段高校では新聞部とはいわずに出版委員会といったそうだ)。
「京都朱雀高校の1年目の4月に九段に編入試験を受けて入り、たしか5月にはさっさと入部していた。誰かに勧誘されたわけではなく、廊下に何げなく貼ってあった一枚の「九段新聞・編集部員募集・部室まで」という粗末な貼紙を見て入ったようにおもう。このときの2年生に水泳部キャプテンで、のちに日本弁護士会の副会長になった山田勝利が、3年生に当時すでにひとかどのミステリー・マニアで、のちにJICC出版をおこして「宝島」を創刊した鈴木(石井)慎二がいた。ぼくはこの先輩二人に編集稽古を鍛えられた。すでに紹介した『嵐が丘』をぼくに勧めた岩崎文江嬢も、実はこの出版委員会にいた。高校新聞の何がおもしろいかというと、毎月一回、二、三日にわたって印刷所に行けることである。印刷所は日刊工業新聞社のビルの中にある。そこに行って毎月一回のいわゆる“出張校正”をやる。校正室にはいろいろの出版社や業界紙のオトナたちが入れ替わり立ち代わり来ていて、赤ペンや赤鉛筆でゲラ校正をしている。このころはまだ朱筆をつかえる老練な編集者たちが顔をきかしていたころで、この人たちが辞書も見ないで棒ゲラにさらさらと難しい漢字の朱を入れる姿は、なかなか見ものであった。かれらはゲラ待ちの時間になると、青臭い議論をするか、そうでなければ将棋や碁を指していた。しかし、ぼくを最も興奮させたのは活版組みの現場に降りていって、組版の職工さんにまじって鉛の活字をいじることだった。そこはまさに金属サーカスの現場だったのである。活版印刷と活字。それはぼくの青春の現場のひとつを飾る鉱山であって、鈍色(にびいろ)の光を放つ宝石だったのだ。それ以来というもの、つねにどこかで「文字の文化」というものに惹かれてきた。」

ところで本書は「ボトニ書体」を取り上げ、作者の人物像からその美的評価までを考察している。どうでもよい話である。これでお仕舞いにする。
[2014/09/29 22:35] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊127夜 『ポケモンの秘密』 ポケモンビジネス研究会
ポケモンとは、ポケットモンスターという名称の、もともとは任天堂のゲームボーイのソフトである。ちなみにゲームボーイとはビデオゲーム機であり、ポケットモンスターは1996年に発売された。ピカチューは150を超えるモンスターの一つだ。偶発的に生れた151匹目のモンスターがミューのようだ。

松岡正剛さんは奇妙な体験を綴っている。
「ぼくの書斎に知らないうちにピカチューをもちこむ人がふえた時期がある。1995年から始めたパーソナル・メディア『一到半巡通信』にピカチューの愛らしさに負けたというようなことを書いたせいだった。ピカチューは福岡から羽田に帰ってきたとき、空港を出る手前でなんとなく振り向いたら、そこにいた。ぬいぐるみなど一度も買ったことがないのに、無性にそれを持ち帰りたくなった。家に子供はいないので、書斎に置いた。毎日見ているうちに、その“密かな関係”がおかしくて、そのことを『一到半巡通信』に書いた。すべてはぼくが撒いた種である」

1996年に発売されて以降、なんだかんだという仕掛けが施されて、2000年を待たずして4000億円を超える市場が創造された。

松岡正剛さんから開発事情を知る。
「ポケモンのアイディアはゲームフリーク社の田尻智が出した。町田生まれ。インベーダーでめざめた世代である。23歳で「クィンティ」というゲームソフトをつくり、ナムコがこれを20万本売った。それで会社をつくった。しかしポケモンには6年がかかっている。通信で交換するというアイディアは、田尻が少年時代に夢中だった昆虫採集から来ている。最初は「カプセルモンスター」という名前で、カプセルの中にモノを入れて自分のところからケーブルを通して、相手のゲームボーイにぽとんと落とすところを見せれば、あたかもケーブルの中を通ってモノが移動するのが実感できるだろうという、そういう計画だった。これにプロデューサー役の石原恒和が加わった。石原君はぼくが10年以上も前から遊んでもらっている若き友人である。一種の天才型のオタクで、いつもその時期の最前線の話題と機械と計画にしか関心をもたない青年だった。そのころは西武系のセディックという会社にいたが、当時すでにずいぶん“新品”やら“試作品”を見せてもらった。いまはクリーチャーズ社の代表で、ポケモン1000億市場の圧しも押されぬボスである。『コロコロコミック』にポケモンを連載させたのも、ポケモンカードをメディアファクトリーの香山哲に勧めたのも、石原君の手腕だった。ポケモンが石原君と田尻智によって生まれたことが聞こえてきたとき、ああ、これで石原時代がしばらく続くなと思ったことである」

キャラクタービジネスの成功事例として知っとくとよい。
[2014/09/28 13:05] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊126夜 『伴淳三郎・道化の涙』 田山力哉
松岡正剛さんは本著をさほど評価しているのではない。
「本書は数ある喜劇役者の評伝のひとつというだけで、とくに名著とか傑作というわけではない。著者はこうした映画関係に詳しく、片岡千恵蔵や市川雷蔵の評伝も書いているが、いずれもソツなく簡潔にまとまっているというだけで、それ以上ではない。それなのにこれをとりあげたのは、喜劇役者の生涯というもの、その日々を覗いてみると感心することばかりなのだということ、それには田山力哉のような書き方が案外適しているということを言いたかったからだ」

伴淳三郎は1908年~1981年を生き73歳の生涯だった。本書は、道化に徹して珍芸を演じ脚光を浴びたコメディアン“バンジュン”の実人生を調べあげ再構成した実名小説であり、スクリーンの裏の悲しき人生を描いている。喜劇役者伴淳三郎は、1950年代、一世を風靡した流行語「アジャパー」「いっぺえやっか」をたて続けにあみ出し、映画『二等兵物語』の大ヒット、“駅前”シリーズの連続ヒットでスターの座に登りつめた。

著者の田山力哉が最後にこう綴っている。
「本名・鈴木寛定。戒名・慈徳院殿親誉観演道居士。七三歳の生涯を閉じた喜劇俳優・伴純三郎は、いま雪に埋もれた墓石の下で母のふくと添い寝をしている。まるで波乱の多かった彼の一生など、一場の夢で、実は何ごともなかったかのように」

『飢餓海峡』で伴淳三郎が刑事役で出ているそうだ。この映画は観ておきたい。
[2014/09/23 23:32] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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