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千夜千冊27夜 『トイレ掃除の経営学』 大森信
自分が千夜千冊をしていることをすっかり忘れていました。前夜に何を読んだのか記憶にないほどです(ブログの記録によると『リベラルライフ』 杉本彩で、昨年10月末に書いています)。さて気を入れ直して再開します。

今宵は、読む前から本著に何が書いてあるのか分かっていました。と言うのには理由があります。著者とはお会いしたことはありませんが、神戸大学経営学研究科で加護野忠男教授に指導を受けられた方ですし、加護野教授(現在、甲南大学特別客員教授)からも本著のニュースを聞いていたからです。私も広くは加護野門下ですので、同門の大森さんがトイレ掃除から経営学の大事として何を研究なさったのかがおおよそ分かります。

しかしながら一般の人には本著はタイトルだけからは意味が取れないでしょう。また経営学を学びながらも浅はか者は、本著を小バカにし関心を持たないかもしれません。大切なことを述べているにも関わらず本著が顧みられないのは広く経営学に学恩を受けるすべての者にとっての損失です。

私の関心はこのタイトル(トイレ掃除)でどういう議論をするのかということでした。つまりトイレ掃除は個人と組織にとって大事なのですが、それをどのようなフレームワークを用いて説明するのかということです。

本著では、唐突にSPA(Strategy as Practice)という概念が提示されます。これは考察不足で中途半端な議論であるという印象を持ちました。経営戦略論としての位置づけにどうも実感が伴わなかったです。「リソースベーストビューの新種?」ぐらいの感覚かしら。何をもって動態的・静態的と分けるのでしょうか。この議論はあまり感心しない。

それより、プラクティスの定義を「意識レベルでの目的的判断や意図によってドライブされた行為ではなく、身体化された非意識的な振る舞いないし惰性的行動」とし、いよいよプラクティスたるトイレ掃除に内在する意味を見出そうとする議論が始まったときから私の感心度は上がってきました。

簡単に言ってしまえば、著者はこのプラクティスは効用をもたらすと説いているのです。個人と組織にどのような効用をもたらすのか。そのフレームワーク「どのように(How)軸・何のために(What)軸」とそれを用いての説明は、私にはすごく斬新でした。初めて聞いた意見です。またこの見解が経営学者から示されたことに敬服します。

結論だけを記しましょう。※感心を持たれたら本著を買って読んで下さい。
(1)掃除を日々繰り返し続けることで、個人に宿る精神がある。具体的には、毎日掃除することによって、組織メンバーが様々な感情を引き起こしていく。そしてその変化の傾向は、自力と利己の精神から自力と利他の精神へ、そして最終的には他力と利他の精神に至る。
(2)自力と利己、自力と利他、他力と利他の3種の組織メンバーを保持することで、組織全体の問題解決力が持続的に向上していく可能性がある。掃除を通じて宿った精神が企業にもたらす効用は4つある。1つは、手順をきちんと守ったり手際をよくしたりすること。2つは、正常な状態を知ったり保ったりすること。3つは、他人のためになることや他人とともに活動すること。4つは、仕事以外も含めたあらゆることを受容することである。

読み終えての感想。「掃除を通じて養われる精神と効用」について、フレームワークと説明の仕方に感心しましたが、はたして実証されたのかどうか。今の段階では大きな仮説にすぎないのではないかとも思います。

それでも実務家としての私には著者が論じる「掃除を通じて養われる精神と効用」は真実だと実感できます。
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[2011/08/25 03:16] | 千夜千冊 | コメント(0) | page top
千夜千冊26夜 『リベラルライフ』 杉本彩
8夜で川島なお美『熟婚のすすめ』を千夜千冊したとき、対比で杉本彩を思い浮かべエロティシズムの人というイメージを膨らませていた。難しいことはよく知らないが、エロティシズムとは性に美をみようとすること、その程度の浅い認識なのだが。

そういうイメージを抱いていた頃、東銀座のシネパトスで『花と蛇2 パリ/静子』の舞台挨拶に立ち会い生の杉本彩を見た。彼女に遠山静子ははまり役だと思った。この映画が決定的となり、その後、私の中では杉本彩ってエロティシズムの人というのが根づいてしまった。

本名は松山基栄(まつやまもとえ)さんと云うのだが、私より5歳下の彼女の出身が京都ということもあり、若い頃から目立っていたという噂話をちらほら聞いたことがある(彼女の代名詞は学園祭の女王だ)。関西出身という意味では、藤原紀香と並んで昔から興味を持っていた(しかしながら杉本彩は、藤原紀香と違って関西弁は口にしないが)。

今宵は自叙伝であることに注目。エロティシズム作品であったら、今の私は敬遠していたように思う。ところが松山基栄という女性がどういう人なのかということになると、ぜひとも読もうという意欲が湧いてきた。川島なお美と同様に杉本彩もAB型。あくまで俗論だが、AB型は男性でも女性でも生き方にこだわりがあり、かつ人生が波乱に富んでいる。そのため独特の個性が宿る。それが魅力となり人を惹きつける。

彼女が11年間連れ添ったというのはたしか沼田年則という人だと思うが、この男性とそして実母との生活と葛藤が赤裸々に綴られている。父が借金をこしらえるという話は誰の物語でも家族にその後人生の波乱を与えるもの。松山基栄さんにも例外ではない。

俗論続きだがAB型は純粋だ。彼女の価値観がよくあらわれているのは次の文章だろう。

「私は、慎重に男を見極めてから愛しはじめるし、一度愛したら簡単に別れることはない。また、相手にクリエイティブな感性がなければ私を理解できないだろうし、付き合ってもいけないだろう。私の言葉や行動について思慮深く掘り下げて考えてくれる人、そして大きな愛で受け止めてくれる人でなければ、絶対に無理である。」

そう云えば昔、芸能人社交ダンス部というのがあった。杉本彩がど真剣に踊っていた。たしか本物のダンス大会でも良い結果を残したのではなかったか。彼女は真摯に打ち込む人だということを知った。本著を読みと、このことが人生の転機の一つとなったと書かれている。

また、化粧品ビジネス事業の成長と失敗を通して実業家の厳しさも学んだようだ。ここにも親族に騙されて利用されてという話が出てくる。

彼女は云う。
「年をとることは「円熟する」ことだと私は考えている」

最後のあたりにリベラルライフの5条件が提示されている。
①自分自身のオリジナルの価値観を持つ
②被害者意識を持たない
③見たくないことも見る
④周囲との摩擦を恐れない
⑤多様性を認める

長く人生を抑圧されていたと彼女は綴っている。いま42,3歳だろうか。やっと魂を解放できる円熟期に入ったのだろうか。異性だが、私も激しく共感できた。本著を読めて良かった。しっかり心に刻みました。杉本彩さん、ありがとうございます。
[2010/10/28 04:33] | 千夜千冊 | コメント(0) | page top
千夜千冊25夜 『無敗の法則 ヒクソン・グレイシー』 ヒクソン・グレイシー
優れたアスリートの話を聴いてみたい。その人が現役でも現役を引退してからでも構わない。監督やコーチのような指導者ならなおさら発言に重みがでる。我々ビジネスパーソンには、彼らの話は心にじわりと響く。

ところが残念だが、スポーツ競技者やその指導者は、たとえば作家のように書き言葉を訓練していない。現役ならなおさら忙しくて読書もさほどしていないだろうから、語彙も少ない。兎にも角にも、彼らは身体に沁みついた体験が人一倍豊富なのだが、その体験を巧みに言葉で現わす技量はないのだ。

私はこれまでソフトボールの宇津木妙子さんやシンクロナイズドスイミングの井村雅代さんらの話を聴いたり本を読んだりしたが、正直なところ、彼女たちの言葉遣いは貧弱だと感じた。だけども話はめっぽう感動する。なぜって、普通の人には体験できない苦難の克服や修羅場のくぐり抜けをやっているからに他ならない。しかもそれを情熱的に語ったり書いたりしている。だから人の心を射る。さらにここに力の漲った言葉を選び用いれば、鬼に金棒だと思うことしばしばだった。

前置きが長くなった。ヒクソン・グレイシーは格闘家である。400戦無敗の男だと云われている。2000年の船木誠勝戦以降は試合をしていない。いま51歳だ。つい最近、正式に引退を宣言した。彼のこれからの使命はグレイシー柔術を普及することのようだ。格闘家としてのこれまでを振り返り広く言い残したいことがあったのだろう。そういう事情から本書は著されたのだと思う。

そのヒクソン・グレイシーと云えど、言葉は拙い。それが私の正直な印象だった。だけど書いてあることのひとつ一つにはたいへんな感銘を受けた。ここにヒクソン・グレイシーが、例えばピータードラッカーのような言葉遣いができたとしたら、ほんとうに鬼に金棒だろうにと思った。

さて私は、本書をいろいろな観点から読み楽しんでみた。まずニュース的な観点である。長男のハクソンくんが交通事故により18歳で亡くなったことは知っていたが、ヒクソン・グレイシーが奥さんに全財産を残し離婚して米国を去りブラジルに帰国したこと、新しい恋人がいること、家には家政婦を雇っていること、二人の娘は欧州で暮らしていること、そんなエピソードを新しく知った。

次に振り返り的な観点である。何と云っても、ヒクソン・グレイシーが父エリオ・グレイシーをどう観ているのかよくわかった。そして船木誠勝戦では、船木のパンチ攻撃で眼下底を骨折し一方の目がまったく見えなかったという証言を目にして、約10年前のあの試合の、そう言えばヒクソン・グレイシーがやけにおとなしい試合運びをしていたなという思い出でが蘇ってきた。その当事者の状況がそういうことだったのかと知りショックだった。

そして本書の中心となる精神的な観点である。言葉が拙いので、ヒクソン・グレイシーに興味のない人なら、こういうのはただの精神論だと片づけるかもしれない。本人も格闘技術を専門的に語っても一般人にはつまらないだろうと配慮してくれているのだろう。精一杯の自分の人生論を語ってくれている。知的なものはそう多く感じないが勇気づけられることに間違いはない。

最後に驚いたことと云えば、ヒクソン・グレイシーってやはり個人主義だということだ。武士道を愛しながらも宮本武蔵には違和感を覚えるという。宮本武蔵には心がないとまで書いてある。日本を愛してくれているようだし何も悪い気はしないが、ヒクソン・グレイシーは日本の伝統の奥義に染まることはなかった。しかし今の若い日本人はヒクソン・グレイシーを支持することだろう。

日本でヒクソン杯というイベントをプロデュースするそうだが、総合格闘技に目が肥えたファインを満足させることができるだろうか。地味なものがでてくるような気がしないでもない。プロデューサーのヒクソン・グレイシーのお手並み拝見といこうか。
[2010/09/30 14:38] | 千夜千冊 | コメント(0) | page top
千夜千冊24夜 『ビジネスで一番、大切なこと』 ヤンミ・ムン
ハーバード大学ではヤンミ・ムン先生の授業はすごい人気なのだとか。そう聞いてはいたけれど、兎にも角にも、彼女の著作で邦訳されたものはなく、どんな論議をする人なのか最近まで知らなかった。

マーケティングの教科書は星の数ほどあるが、生活者認知やニーズから論じられているものがまだまだ少ないと感じるし、メーカーサイドからの押しつけがましいマーケティング論には辟易している。

ちょうどそのような精神状況にいたので、本著を読み終えて、私は清涼感と云おうか爽やかな気持ちになれた。プロジェクトラーニングの精神ってこういうことなのだと気づかされ、そして勇気づけられた。

本著が一般向けに書かれているのはよく分かる。アカデミックに云うと、ヤンミ・ムン先生の議論はすこぶる粗い。というか理論になっていない。けれどそのようなことはどうでもよい。彼女の問題提起は球がど真ん中に放られているからだ。それが私には痛快だった。

例えば、こんな具合だ。ほんとその通りじゃないか。
「かつては変化がゆっくりと慎重にもたらされ、次への礎石が築かれた後に新たな一歩が踏み出されていた。ところが今や変化は急速に、しかも無節操に起きていて、さほど意義があるようにも思えなくなっている。これが、本来の目的を見失ったカテゴリーの特色だ。この段階のカテゴリーを、私は「過度の成熟」と表現している。過度のセグメント化、過度の拡張、過度の競争の結果、変化そのものがコモディティ化する」

彼女が云っているカテゴリーとは、石鹸やシリアルや靴など、そういったもののことである。このカテゴリーのなかに多くの製品がある。企業は、競合と対抗して差別化された製品を次々に開発し販売する。ところが「過度の成熟」段階に入ると、生活者にとってそのような企業が行なう差別化などどうでもよくなる。ヤンミ・ムン先生の言葉を借りれば、「カテゴリーに対する消費者の愛着が弱まるだけでなく、愛着を示すこと自体が馬鹿馬鹿しく見え始める」ということだ。

以下の指摘は、今日のマーケティングの命題の一つとなりえよう。私は“差別化のジレンマ”と呼びたい(クレイトン・クリステンセン先生みたいでかっこいい)。
「様々なカテゴリーで差別化が神話となりつつある。企業は一丸となって競い合ってはいるが、意味のある違いを生み出すという使命を見失っているように見える。激しく競えば競うほど、互いの違いは小さくなり、精通したプロでなければ見分けがつかなくなる。要は、類似性ばかりが目につくのだ」

ヤンミ・ムン先生は、その処方箋としていくつかの例を示している。一部を除いて日本の事例がないし、この辺りの議論は粗くあまり説得力を感じない。これから本著を読む人は、自分の頭で考えて欲しい。私なりの理解は、再びヤンミ・ムン先生の言葉を借りれば、「真の差別化は、均整の取れた状態から生じるものではない。むしろ、偏りから生まれる」という原理に帰結すると思う。

何気なく、当たり前のように使っている言葉の一つだが、「差別化」って、その本質は何なのか。それを考えさせてくれる好著である。
[2010/09/13 03:37] | 千夜千冊 | コメント(0) | page top
千夜千冊23夜 『終わらざる夏』 浅田次郎 『8月17日、ソ連軍上陸す』 大野芳
このあいだ週刊新潮で、浅田次郎と大野芳の対談記事がでていた。この二人の作家が作品で共通に扱った史実は以下である。

終戦から2日が経過した昭和20年8月17日深夜、最北の日本領、千島列島の占守(シュムシュ)島に、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が、突如、攻め入った。3日間に及ぶ激闘で、日本軍600名以上の戦死者、ソ連軍3,000名以上の戦傷者を出した。占守(シュムシュ)島は、「もう一つの硫黄島」とも呼ばれる。

おそらく多くの日本人がこの史実を知らないだろう。私もそうだった。日本は米軍と戦っていたのであり、この時期に、最北の地で、南隣する幌筵(パラムシル)島とあわせて23,000人もの日本軍が活動していたなんて想像もできやしない。しかも一個連体という強力な戦車部隊がいた。どう考えても対ソ連軍用だろう。

さて今宵の二冊なのだが、占守島の戦いそれ自体については 『8月17日、ソ連軍上陸す』 が詳しい。というかその全容が記述されている。著者は、もし占守島で日本軍が抗戦していなければ、ソ連軍が北海道どころか奥羽地方の一部さえ攻め落としていたかもしれないと主張する。そうかもしれないとは思う。しかし歴史のif議論をやり始めたら切りがない。私にはそれ以上に何の関心もない。

一方 『終わらざる夏』 の方はどうなのか。結論から云うと、この作品は後半に行くほどつまらなくなる。正直私も後半は集中して読んでいない。それより圧倒的に前半が興味深かった。それは何故かと云うと、これまでの戦争作品ではあまり描かれてこなかったことが書かれているからである。

それは3つある。1つは、軍令部で高官が動員計画を策定する様である。赤紙の源にはこういう実態があったのかと知ることができてよかった。1つは、地方の役人が赤紙を届ける様である。赤紙が届き複雑な心境になる様はこれまでの戦争作品に多く見られたが、届ける側の様子については皆目分からなかった。その意味で私には貴重な記述であった。最後の1つは、兵役年限についてである。この時期45歳までとは初めて知った。いや初めて意識した。この年齢ぎりぎりの中年が主人公である。こうすると確かにドラマは生まれるなと感じた。

つまり 『終わらざる夏』 は史実を知るためのものではなくて、稀有なシーンを美しい日本語で綴ってくれているのを味わう作品だ。私の感想はそうだった。流石に当世人気作家。浅田次郎の言葉遣いを堪能した。

二冊とも、今夏の読書としては良質でした。
[2010/09/01 04:39] | 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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