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追うぞ! 千夜千冊136夜 『尾崎豊・覚え書き』 須藤晃
今宵、なぜこの選本なのかよく分からない。

松岡正剛さんは、今宵はいつもと違って、意味不明に書き出す。
「いい本だ。なにより著者のスタンスがいい。尾崎豊のような若者スターを相手に何かを綴るというのは、もともと難しい。しかもそのスターが26歳で夭折して謎の死をとげているだけに、よけいに難しかったろうに、つねに一定のスタンスを崩さずに綴ったのが、尾崎豊をかえって浮上させた。なぜかぼくにも、ときどきXJapanのhideやサッカーの中田英寿と会って対話をしてほしいとか、かれらについて書いてほしいという依頼がくる。が、たいていお断りしている。付き合いがないかぎりは、とうてい書けそうもないからだ」

尾崎豊なら、薄ら覚えがある。僕は、大学時代に尾崎豊ファンの女性と交際していた。彼女に知らされ、デビューし立ての尾崎の歌をはじめて聴いた。尾崎は、熱量が半端ないとは感じた。

松岡正剛さんは、著者と尾崎豊との関係を要約してくれている。しかしそれが一体どうしたんだという内容だが。
「著者の須藤晃はCBSソニーのディレクターで、音楽プロデューサーである。尾崎のアルバムの大半を手がけた。16歳の尾崎のビデオを見せられ、「暗い歌だから、おまえが担当しろ」と言われたのが尾崎との出会いだったという。須藤は最初のアルバム『十七歳の地図』の歌詞を何度も尾崎に書きなおさせている。これがすべての成功の原因だったようだ。須藤自身が大学でアレン・ギンズバーグやゲイリー・スナイダーらのアメリカ現代詩人を専攻していたせいもあったろう。そのころの尾崎はパンクロックの「アナーキー」が好きだったらしい。意外なような気もするし、それなりに頷けもする。ぼくも一度だけ「アナーキー」のナマを聞いたが、そのときのライブハウスに来ていた連中は、どこか尾崎に共通するものがあったからだ。当時、尾崎はエーリッヒ・フロムを読んでいた」

先日(4月1日だった)、「昭和偉人伝」という番組があり、尾崎豊を取りあげていた。見城徹さんとのエピソードが興味深かった。須藤晃さんも出演していて、当時の尾崎のことを語っていた。

松岡正剛さんは、尾崎豊の奇怪さを、次のように表現している。
「ところが、尾崎自身は苦悩しつづけた。20歳になったときのコンサートでは、最後の曲で「俺の歌なんだから、誰も歌うんじゃない!」と発言し、その後のコンサートを停止してしまったりした。いつも苦悩しつづけていたらしい。そうした尾崎のファン無視の態度に、さすがに取り巻きやファンも「こいつはどこかおかしいんじゃないか」と思いはじめた。尾崎はコンサートが終わると吐いていた。ダメな自分を吐いたのである。ついにレコード会社も移籍した。つまり著者とは別れることにもなった。1987年の年末には、須藤もまったく気がつかなかったそうだが、覚醒剤取締法違反で逮捕もされた」

尾崎豊は、逮捕後、復活を果たすのだが、須藤晃さんらが支えたのだろう。

それだけの話ではないか。
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[2015/04/09 00:15] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊135夜 『電話帳の社会史』 田村紀雄
電話帳の変遷が書かれてある。

松岡正剛さんの要約では以下のように説明されている。
「最初に電話帳のしくみをつくったのは、リチャード・ドネリーの『シティ・ディレクトリー』のようだ。1880年代までさかのぼる。すでにアルファベティカル・ページとビジネス・ページに分かれていた。後者がイエローページにあたる。ドネリー社のしたことで興味深いのは、ヘディング(分類)とデザインの工夫である。デザインはタイプフェイスの多用によっているが、ヘディングには「ブック・ビジネス」という分類方法を採用した。いわゆる職業別である。その後、電話帳はめざましい進化をとげていった。まず定期刊行物になった。「最もよく読まれている雑誌」「聖書を凌ぐベストセラー」などといわれるのは、電話帳がれっきとした出版物であることをよく物語っている。しかもタダ。そこで電話帳に目をつける広告主が次々にあらわれた。たんなる広告ではない。電話番号を広告するという“文化”がそこにあらわれた。こうなると電話番号にも“いい番号”というものが出現して、プレミアムがついてくる。「♪伊東に行くならハトヤ、ハトヤに決めた、4126、ハトヤ、よいふろ、ハトヤ」というふうになる。」

電話の発明と共に、電話帳も生れた。やがて電話帳は出版物となった。そこに広告をだす事業者があらわれイエローページが登場した。第二次世界大戦を経て電話帳市場は再編され、データベースと検索の技術革新と共に、電話帳は進化していった。

ここで、松岡正剛さんのお得意の編集が登場する。
「電話帳の歴史は検索の歴史でもある。ということは、編集の歴史でもあった。いまインターネットでも検索システムが最も重要なサービスになっているが、これは電話帳の歴史のまさに繰り返しなのである。最初は交換サービスである。ついで電話番号案内や電話番号調べというサービスが生まれた。番号調べ員がずらりと並んで首っぴきで調べ、サービス孃がこれをお知らせするという原始的なサービスから出発して、しだいに検索システムを向上させていった。電話帳の巻末にも各種のインデックスをつけた。イヤイヤ電話帳そのものが巨大な検索システムとして成長していったのである。さらに電話番号から名前へ、住所と名前から電話番号へという、オンラインによる相互検索サービスができてきた。しかし、これらの検索サービスもコンピュータとネットワークが結ばれるにしたがって、結局は電話だけのサービスではなくなっていった。オンライン上のすべての情報を検索できること、このことが最大目標になってきたのである。インターネット時代とはそのことである。しかし、こうなってくると、電話をふくむオンラインシステムの総体が検索エンジンを内蔵した編集構造をもたなければならないということになる。また、送信側と受信側がしだいに同一編集検索システムの中で重なっていく。しかも電話番号とIDコードとが連動と重畳することによって、最近のケータイやiモードがそうなのだが、電話をかけることとメールをヨムことと、その相手の番号(コード)を登録することと、それをリダイヤルすることが、すべて同じ意味をもってくる。つまり検索とは、実は「相互編集モードの共有だ」ということになっていくのである」

そういうことなのか-。あまり興味が湧かない。

著者の田村紀雄先生は社会学者である。どうして本著を書かれたのか不明だが、電話帳の社会史について国内最初でかつ仔細な書籍であることに相違ない。
[2015/02/10 00:10] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊134夜 『明治女学校の世界』 藤田美実
何の話かよく分からない。手掛かりは、木村熊二という人がいたそうで、この人物を知ることから始めたい。木村熊二は1845年生れ1927年(昭和2年)死去。享年82歳。キリスト教牧師で教育者であった。

1885年(明治18年)、木村熊二と妻の木村鐙子(とうこ)は、九段下牛ヶ渕(現在の千代田区飯田橋)に明治女学校を開校した。近代日本における女子教育の先駆けとみなされている学校の一つであった(ただし1886年に鐙子はコレラで急死)。

1888年(明治21年)、木村熊二は、伊東華子と再婚するが、華子のスキャンダルに巻き込まれる形で女学校の校長職を退く羽目になった。その後、明治女学校は巌本善治が校長を引き継いだ。明治女学校は1909年(明治42年)に閉校するが、23年間存続期間に多くの人材を輩出した。

松岡正剛さんの解説で、木村熊二をさらに知ろう。
「最初のシテ役は木村熊二である。木村は京都に生まれて昌平黌で佐藤一斎に学んだ。その後、静岡学問所や沼津丙学校のある静岡に移って、ここで田口卯吉らと知りあった。明治3年に森有礼が少弁務使としてアメリカにわたったとき、外山正一・名和道一・谷田部良吉を弁務館員として選んだのは有名な話だが、そのとき外山が木村を誘った。アメリカで多少の“世界”を知った木村は、妻に鐙子を選ぶ。鐙子は明治12年に植村正久が創立した横浜バンド系の下谷教会で婦人会をつくっていた。アメリカ帰りの木村と、教会婦人部のリーダーである鐙子が一致相談してつくったのが、明治女学校である」

若き日の島崎藤村や津田梅子などが教壇に立ったそうだ。

本著は明治女学校の当時の事情を綴ったものである。
[2015/01/26 23:52] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊133夜 『直観幾何学』 ダヴィッド・ヒルベルト&コーン・フォッセン
今宵の松岡正剛さんは、本著とは関係のない、1967年の、自身が編集長を担った『ハイスクール・ライフ』というタブロイド新聞のことを語っている。どうでもよいのではないか。

松岡正剛さんは冒頭でこのように記している。本著のまえおきを写している。
「数学には二つの方法がある。ひとつは「抽象化」の方法で、これは幾重にも重なった数学的事実から論理的な立場をつくりだすもので、その後にはこれらの事実をまとまりとして一つの統一システムをつくりあげたくなる。もうひとつは「具体化」の方法で、これは対象の動向をそのまま生きた姿でつかみとり、その内面的な関係をさぐろうというものである。しかし、この二つの方法をつなげる方法というものもなければならない。そこにはしばしば「直観」が動いている。幾何学ではもともと代数幾何学、リーマン幾何学、位相幾何学というような「抽象化」が成功をおさめて、その後の統一システムをつくってきた。それはそれでいい。けれども、そのような成功の最初に何があったかといえば、これは「幾何学的直観」ともいうべきものがはたらいていたはずなのだ。本書はその「幾何学的直観」の正体を求めて、それを大胆にも「直観幾何学」と呼びなおしてみせた画期的な一冊だった」

幾何学とは図形や空間の性質について研究する数学。説明が難解で頭に入ってこない。要するに直観でつかむ幾何学なのだろうが。
[2015/01/13 23:30] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊132夜 『青い花』 ノヴァーリス
今宵の松岡正剛さんはこのような書き出しである。
「読書というものには偶然が関与する。夜中に街を歩いていて、ふと見上げた星々の何に目をとめたかという偶然だ。いつ、どこで、どんな本に出会ったか。そのなかには、一連の星座をかたどる本のうちの一冊に出会うような偶然もある。たとえばドイツ・ロマン派にいつ出会えたか。これはその後の読書海図のひとつの運を決めている。彷徨する海上でどんな星に出会えたかということに近い。その星も、ゲーテでは大きすぎるし、ヘルダーリンではあまりに微に入りすぎている。ホフマンかノヴァーリスか、あるいはジャン・パウルかティークか。これらは北斗七星やオリオン座といった星座である。一度、目についたら全天はこの星座から始まっていく。ちょっと冬めく書籍の夜陰なら、アルニムかブレンターノというところ、これはさしずめスバルや猟犬座であろう。運がよければ最初からシュレーゲル兄弟という連星に出会うということもある。ドイツ・ロマン派に出会うこと、それは、読書においてどのように「夜の思想」に出会えたかということであり、どのように「夢」と「電気」と「彗星」を同時の刻限に観相できたかということを物語る。その同一刻限に見るロマン派の光景というものは、出会ってみなければ決してわからない結晶的な雰囲気というものを伝える。ぼくにはそれがノヴァーリスの『青い花』からだった」

本との出会いとはそんなものか。よく分からない。どうやら自分の人生でドイツ・ロマン派と出会わなかったようだ。ゲーテ「若きヴェルテルの悩み」、シラー「群盗」など18世紀半ば以降のドイツ文学のことだろうか。

松岡正剛さんから一つの事実を教わる。
「ノヴァーリスには14歳で婚約したゾフィーという少女がいたこと、そのゾフィーはすぐ重病に罹って死んでしまったこと」

本書は愛の小説か。二部構成となっており一部は完結しているが二部が未完のようだ。表題は、主人公が旅の終わりに出会った女性が実は夢で青い花にみた顔であることを認識しこれこそ永遠の愛の原像がこの世にあらわれた姿であると知ったのか。

1801年、ノヴァーリスは満28歳で夭逝した。
[2015/01/06 18:20] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊131夜 『鹿鳴館の系譜』 磯田光一
磯田光一は1931年生れ。1987年に56歳で亡くなっている。文芸評論家であった。

後期の仕事が評価されているようである。1978年(磯田光一47歳)の『思想としての東京』以後、実証的な手法で近代日本をとらえるやり方に変化したとされる。1979年には『永井荷風』で第1回サントリー学芸賞、1984年には『鹿鳴館の系譜』で読売文学賞を受賞。戦後文学の軌跡についても『戦後史の空間』(1983年)、『左翼がサヨクになるとき』(1986年)などの著作がある。『萩原朔太郎』を完成させた後、急逝。

本著では何が要点なのか。松岡正剛さんの解説に学ぼう。
「明治16年11月28日に鹿鳴館は麹町内山下町に開館した。いま日比谷の帝国ホテルがあるところより少し南側にあたる。プロデューサーは井上馨、設計はジョサイア・コンドル、総工事費が18万円だった。すぐに洋装舞踏会が開かれた。ピエール・ロティは「東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は、まったくの猿真似だった」とからかった。しかし、これが日本の翻訳文化の確立であり、江戸とは無縁の文学の誕生であり、初の日本モダニズムの樹立であったのである。実際にも、これらはだいたいが明治16年の前後におこったことばかりだった。磯田光一はそのことをあえて積極的に認めないかぎり、日本の「近代」の意味など見えてこないと考えた。これが本書を貫く基本姿勢である。これより数年前、すでに磯田は『思想としての東京』および『永井荷風』によって、明治日本のモダニズムの原点をさぐろうとしていたのだが、その原点にひそむ謎の解明は、本書に任された」

本書は11章で構成されている。
1 訳語「文学」の誕生-西と東の交点
2 「小学唱歌」考-その一世紀の帰趨
3 湯島天神と丸善-硯友社における江戸と西洋
4 東京外国語学校の位置-二葉亭四迷『浮雲』の原像
5 「明星」派の水脈-『みだれ髪』の遺産
6 漱石山房の内と外-『明星』の基底にあるもの
7 『田園の憂鬱』の周辺-佐藤春夫と宇野浩二
8 日比谷・銀座界隈-都市と前衛芸術
9 「革命」という外来思想-風土のなかのドラマ
10 昭和のモダニズム-ある感情革命
11 三人の鹿鳴館演出者-聖徳太子・伊藤博文・吉田茂

明治の日本が近代のモダニズムをいかに獲得していったかを思い綴っている。

さらに松岡正剛さんの解説に学ぼう。
「本書は一方で、近代日本のモダニズムの発生の仕方について議論しようとする者たちのための、語り口のプロトタイプをつくりだした。これは磯田光一の隠れた功績である。もうひとつのプロトタイプは、おそらく前田愛や芳賀徹やらがつくった。その後、これらのプロトタイプはさまざまに変奏され、編集されて、樋口覚から松山巌までが、関川夏央から東秀紀までが、それぞれに発展して踏襲した。このプロトタイプを、磯田光一がどのような議論によって肉付けしたかというのが、本書を読むフォークとナイフの使い方になる。切り口は、まず江戸晩期の「文学」がそもそもは「洋学」に対抗するもので、かつリベラルアーツの意味をもっていたにもかかわらず、やがて文学は単なる文芸作品の羅列の意味に変わっていったという問いから始まっている。少なくとも『日本開化小史』の田口卯吉のあたりまで「文学とは人の心の顕像なり」であったのである。ところが、いつのまにか文学は文芸意匠の代名詞になっていく。これはなぜなのかというのが、磯田の最初の問いである。これで本書における磯田の包丁捌きがどういうものかが、だいたいわかる」

文芸評論家の仕事とはこのようなものなのか。

まったく興味が湧かない。
[2014/12/24 21:55] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊130夜 『裏切られた革命』 レフ・トロツキー
レフ・トロツキー。1879年-1940年。ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家、ボリシェヴィキの革命家、マルクス主義思想家。トロツキズムまたはトロツキー主義は、レフ・トロツキーによって主張されたマルクス主義および共産主義革命理論のことでトロツキズムを主張する者をトロツキストという。

松岡正剛さんに要約してもらおう。
「トロツキーは1935年に亡命先をフランスからノルウェーに移して、そこで本書を書いた。もとより執筆能力の旺盛なトロツキーだったので、あっというまに書き上げたかとおもう。原題は『ソ連とは何か、そしてどこへ行くのか』というものだった。それがフランス語版で『裏切られた革命』になったのを、トロツキーも承認したらしい。このタイトルは、本書執筆の翌年の12月にスターリン憲法が制定されたことをおもうと、まさにふさわしい。トロツキーが本書で言いたかったことは「ソ連には社会主義はまったく存在しない」ということだったからである。トロツキーは本書を書いた5年後の1940年に、メキシコ郊外でピッケルで脳天を打ち砕かれて死んだ。スターリンの指金であることが明白になっている。スターリンは最初はシケイロスを隊長とする20名ほどの暗殺団にトロツキーを狙わせた。しかし、これは失敗した。ダヴィド・シケイロスといえばメキシコを代表する画家であるが、第二次世界大戦中の当時は画家が暗殺を計画するような、そういう行方知らずの情勢だった。メキシコばかりのことではない。このあたりの情勢はあまりに複雑すぎて説明しきれないが、たとえば、トロツキーはシケイロスに狙撃される前はフリーダ・カーロの「緑の館」に隠れていて、そこは画家のディエゴ・リベラが譲ったものだった。革命画家たちのあいだも割れていたわけである。それはともかく、何であれシケイロスは失敗した。そこでスターリンは、トロツキーの女性秘書の恋人役になりすました青年暗殺者を送りこむ。青年は首尾よく60歳のトロツキーの脳天をかち割った。トロツキーはこのテロリストをすっかり信用していたらしい。遺言は「第4インターナショナルを前進させてほしい」だった」

ロシア革命(十月革命、1917)は、トロツキーとレーニンにより指導された。1924年レーニンが死去するとスターリンが台頭しトロツキーと対立する。政治力に長けたスターリンが勝利し、トロツキーはメキシコに亡命しそこで暗殺されたのである。
[2014/10/14 00:18] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊129夜 『アジア的身体』 梁石日
本書『アジア的身体』はあまり読む気を誘わず積読になっていたが、『夜の河を渡れ』はとても読みやすく愉しめた。梁石日(ヤン ソギル)はこういう作品を書くのかと知った。歌舞伎町の裏社会をリアルに描いてある。

『血と骨』は読んではいないけれど映画(2004年、崔洋一監督)は観た。1920年代、一獲千金の夢を胸に済州島から日本に渡って来た金俊平(ビートたけし)。彼は、李英姫(鈴木京香)を強姦し強引に結婚し息子の正雄(新井浩文)らに暴力をふるい、次々と愛人を囲う父親であった。そのような内容の映画。

松岡正剛さんは、どうして本著を選本したのか。このように語っている。
「梁石日がぼくに突き付けたものは、ぼくが入らなかったそうした洞窟の数々である。在日朝鮮人問題、ヒロシマ体験、中上健次の功罪、金史良や李良枝の文学の評価、被差別部落問題、日本の中の異邦人の実態、金芝河の評価、天皇とアジア、朴正煕政権と全斗煥時代によってつくられた韓国社会の意味、韓国民俗学の動向、日本的身体感覚の退嬰、セマウル運動の本質、金時鐘という文学、光州事件、日本のパチンコブーム、そして「アジア的身体性」とは何かという問題。これらはいずれも本書が取り扱っている話題たちであり、いずれもぼくが面と向かって考えてこなかった問題群だった」

このような紹介文があった。独特の世界観なのだと神妙になった。
「在日朝鮮人文学、日本文化の閉鎖性、国際化と差別・・・朝鮮・日本・在日をめぐる問題を柔軟かつラディカルに思考しつつ、規範からはみ出し、溢れ出る<アジア的身体>を喚び起こす」
[2014/10/11 23:58] | 未分類 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊128夜 『ボドニ物語』 田中正明
表題に物語とあるから、何かファンタジー小説かと思った。見るとタイポグラフィの話だと知る。

タイポグラフィ(Typography)は、活字を用い、それを適切に配列することで印刷物における文字の体裁を整える技芸である。印刷物の読みやすさである可読性や、視認性、そしてその美しさを得るために、活字の配置・構成やその属性すなわち書体、字体の大きさ、行と行との間隔、文字と文字との間隔、印刷紙面上での活字が占める領域の配置・構成などを設定し、経済的に効率良く印刷物を出版することがタイポグラフィの始点である。

アップル創業者スティーブ・ジョブスが、Reed大学でカリグラフィ(装飾文字)の授業に出て話は有名だ。タイポグラフィの一部にカリグラフィがあるという理解でよいだろう。

松岡正剛さんは高校時代の「九段新聞」の話をしている(九段高校では新聞部とはいわずに出版委員会といったそうだ)。
「京都朱雀高校の1年目の4月に九段に編入試験を受けて入り、たしか5月にはさっさと入部していた。誰かに勧誘されたわけではなく、廊下に何げなく貼ってあった一枚の「九段新聞・編集部員募集・部室まで」という粗末な貼紙を見て入ったようにおもう。このときの2年生に水泳部キャプテンで、のちに日本弁護士会の副会長になった山田勝利が、3年生に当時すでにひとかどのミステリー・マニアで、のちにJICC出版をおこして「宝島」を創刊した鈴木(石井)慎二がいた。ぼくはこの先輩二人に編集稽古を鍛えられた。すでに紹介した『嵐が丘』をぼくに勧めた岩崎文江嬢も、実はこの出版委員会にいた。高校新聞の何がおもしろいかというと、毎月一回、二、三日にわたって印刷所に行けることである。印刷所は日刊工業新聞社のビルの中にある。そこに行って毎月一回のいわゆる“出張校正”をやる。校正室にはいろいろの出版社や業界紙のオトナたちが入れ替わり立ち代わり来ていて、赤ペンや赤鉛筆でゲラ校正をしている。このころはまだ朱筆をつかえる老練な編集者たちが顔をきかしていたころで、この人たちが辞書も見ないで棒ゲラにさらさらと難しい漢字の朱を入れる姿は、なかなか見ものであった。かれらはゲラ待ちの時間になると、青臭い議論をするか、そうでなければ将棋や碁を指していた。しかし、ぼくを最も興奮させたのは活版組みの現場に降りていって、組版の職工さんにまじって鉛の活字をいじることだった。そこはまさに金属サーカスの現場だったのである。活版印刷と活字。それはぼくの青春の現場のひとつを飾る鉱山であって、鈍色(にびいろ)の光を放つ宝石だったのだ。それ以来というもの、つねにどこかで「文字の文化」というものに惹かれてきた。」

ところで本書は「ボトニ書体」を取り上げ、作者の人物像からその美的評価までを考察している。どうでもよい話である。これでお仕舞いにする。
[2014/09/29 22:35] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
追うぞ! 千夜千冊127夜 『ポケモンの秘密』 ポケモンビジネス研究会
ポケモンとは、ポケットモンスターという名称の、もともとは任天堂のゲームボーイのソフトである。ちなみにゲームボーイとはビデオゲーム機であり、ポケットモンスターは1996年に発売された。ピカチューは150を超えるモンスターの一つだ。偶発的に生れた151匹目のモンスターがミューのようだ。

松岡正剛さんは奇妙な体験を綴っている。
「ぼくの書斎に知らないうちにピカチューをもちこむ人がふえた時期がある。1995年から始めたパーソナル・メディア『一到半巡通信』にピカチューの愛らしさに負けたというようなことを書いたせいだった。ピカチューは福岡から羽田に帰ってきたとき、空港を出る手前でなんとなく振り向いたら、そこにいた。ぬいぐるみなど一度も買ったことがないのに、無性にそれを持ち帰りたくなった。家に子供はいないので、書斎に置いた。毎日見ているうちに、その“密かな関係”がおかしくて、そのことを『一到半巡通信』に書いた。すべてはぼくが撒いた種である」

1996年に発売されて以降、なんだかんだという仕掛けが施されて、2000年を待たずして4000億円を超える市場が創造された。

松岡正剛さんから開発事情を知る。
「ポケモンのアイディアはゲームフリーク社の田尻智が出した。町田生まれ。インベーダーでめざめた世代である。23歳で「クィンティ」というゲームソフトをつくり、ナムコがこれを20万本売った。それで会社をつくった。しかしポケモンには6年がかかっている。通信で交換するというアイディアは、田尻が少年時代に夢中だった昆虫採集から来ている。最初は「カプセルモンスター」という名前で、カプセルの中にモノを入れて自分のところからケーブルを通して、相手のゲームボーイにぽとんと落とすところを見せれば、あたかもケーブルの中を通ってモノが移動するのが実感できるだろうという、そういう計画だった。これにプロデューサー役の石原恒和が加わった。石原君はぼくが10年以上も前から遊んでもらっている若き友人である。一種の天才型のオタクで、いつもその時期の最前線の話題と機械と計画にしか関心をもたない青年だった。そのころは西武系のセディックという会社にいたが、当時すでにずいぶん“新品”やら“試作品”を見せてもらった。いまはクリーチャーズ社の代表で、ポケモン1000億市場の圧しも押されぬボスである。『コロコロコミック』にポケモンを連載させたのも、ポケモンカードをメディアファクトリーの香山哲に勧めたのも、石原君の手腕だった。ポケモンが石原君と田尻智によって生まれたことが聞こえてきたとき、ああ、これで石原時代がしばらく続くなと思ったことである」

キャラクタービジネスの成功事例として知っとくとよい。
[2014/09/28 13:05] | 追うぞ! 千夜千冊 | コメント(0) | page top
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